前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その22(『三・一独立運動』前夜 蔓延る帝国の矛盾)‐

 

 

・延べ200万人以上 全朝鮮にうねる 『三・一独立運動』 

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 183頁より

 

1919年2月8日、日本にいる朝鮮人留学生たち東京で集会をもち、独立宣言を発表した。

日本の侵略と支配をきびしく糾弾し、朝鮮民族の栄光と独立運動への決起を訴えた、この宣言は、内外の朝鮮民衆の闘志を湧きたたせた。

 

朝鮮国内では、ブルジョア民族主義者たちの活動も強くなり、孫秉熙<ソンビョンヒ>を中心とする天道教(東学)幹部をはじめとして、キリスト教・仏教関係者らは、33名の『朝鮮民族代表』を選出し、独立宣言の発表を準備していた。

 

それに青年学生たちの参加が「約束された」。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐

 

彼らは、高宗(1907年ハーグ密使事件で伊藤博文に退位を強いられた元の皇帝)の葬儀が、1919年3月3日に行われるのを利用して、その二日前の3月1日に、ソウルのパゴダ(タップコㇽ)公園で独立宣言を発表し、大衆に訴える準備をしていました。

 

 

『탑골공원<タッコㇽコンウォン>』 (Wikiより)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%83%91%EA%B3%A8%EA%B3%B5%EC%9B%90

 

ところが、この「民族代表たち」は、当日になっても姿を見せずに、自分たちだけで『泰和館』という料理屋に集まって、独立宣言を朗読し、警務総監部に電話をかけ「自ら逮捕される」という行動を取った。

 

彼らは、欧米諸国の「援助」と日本の「理性」に訴え、一種の請願という形で、朝鮮の独立を達成しようとした。なぜ、そのような「お花畑」的行動を取ったのかというと、当時の『民族自決論』を唱えたウィルソンの言葉を信じる一方で、大衆市民の革命的力量に依拠することを知らなかったわけで、これは独立宣言そのものにも反映していました。

 

しかし、大衆は彼らを乗り越えてすすんだ。

 

 

『사진은 3·1운동 당시 광화문 기념비각 앞에 모인 군중들 모습. 독립기념관 제공<写真は三・一運動当時の光化門記念碑閣前にあつまった群衆たちの姿 独立記念館提供>』

출처<出典> : 법보신문(http://www.beopbo.com)

 

http://www.beopbo.com/news/articleView.html?idxno=203419

 

1919年3月1日「民族代表」不在のなか、パゴダ公園に集まった数千の大衆の前に、青年学生たちの手によって独立宣言文がまかれ、朝鮮の独立が宣言された。

 

たちまち群衆は「朝鮮独立万歳!」を叫んで、デモ行進を開始し、ソウル市民や高宗の葬儀見物に来ていた地方の農民を巻き込んで、みるみる数十万の示威行進に膨れ上がっていった

 

 

『3·1운동 [三一運動] 기미독립운동[己未獨立運動], 1919』ど(Designerspartyさんフェイスブックより)

 

https://ko-kr.facebook.com/designersparty/photos/a.1151161864927695.1073741992.345549275488962/1288505107860036/?type=3

 

いたるところで、独立の演説がおこなわれ、『独立新聞』『国民新聞』『労働新聞』『覚醒号』などの新聞檄文がまかれた。

 

商店は閉店し、交通機関はとまり日本の支配秩序はたちまち麻痺した。

 

蜂起した大衆は、日本軍・憲兵・警察の血の弾圧にも屈せず、日の暮れるまで首都(京城・現ソウル)を揺るがせた。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 213頁より

 

同じ3月1日、京城(現ソウル)だけでなく、平壌<ピョンヤン>をはじめ、南浦<ナムポ>・安州<アンジュ>・宣川<ソンチョン>・義州<ウィジュ>・元山<ウォンサン>などでも、独立示威のデモがおこなわれた。

 

この日を境に爆発した朝鮮民衆の抗日蜂起は、またたく間に地方都市から農村へと波及し、3月中旬ごろには、「朝鮮全土」を巻き込んだ全民族的な大闘争に発展しました。

 

日本側の官憲資料でも、1919年3月1日から5月末までの間に、218の市・郡のうち217で計1491回のデモや暴動がおこり、200万人以上の大衆が参加したという。

 

 

・「市民主体」の運動に 闘争の本質がある

 

「蜂起の拡大」とともに、闘争自体も発展していった。

 

三月初旬の蜂起は、青年・学生や都市住民の示威運動が中心でした。そして、この『蜂起の契機』は、民族ブルジョアジーや小ブルジョア・インテリ層がつくり出したものが多く、対して、三月中旬以後の蜂起は、地方の鉱山労働者を中心とする労働者と、広範な農民が結合した暴動が基本となった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その19(続・過酷な植民地経営 強行された土地調査令)‐

 

彼らは、日本の憲兵・警察や郡庁・面(朝鮮の自治単位)事務所・郵便局などを襲撃して、「日本の支配」と真正面から対決した。それは土地・課税台帳などを破棄して、部分的にではあれ「大衆の生活に直接かかわる問題」の闘争目的としたことにおいても、重要な意味をもっていました。

 

また都市でも、もはや大衆は単なる民族ブルジョアジーやインテリに「動員される存在」ではなく、彼ら彼女らは、それぞれが意志をもって、独自に組織してたたかいはじめていた。

 

青年学生たちは、同盟休校などをおこない、当初の大衆蜂起の「事実上の組織者」の役割を果たし、さらには「諸階層の運動の連携」をはかる仕事もおこなった。商人たちは撤市(ストライキ)をおこない、蜂起に参加した。

 

そうやって、ほぼ2ヵ月近くにわたる商人たちの「長期間の撤市」は、かつてないことでした。

 

労働者階級は、3・1独立運動の「もっとも積極的な参加者」でした。彼らの蜂起の先頭に立って参加しただけでなく、大規模なストもおこなった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その22(『三・一独立運動』前夜 蔓延る帝国の矛盾)‐

 

すでに前年から急増しはじめていた「労働者ストライキ(同盟罷業)」は、この年(1919)でも102件参加人員1万1千人へと飛躍的に増加し、殊に、この3~4月のあいだに繰り返されたストライキは、とても大きな意義をもっていました。

 

 

・運動の「反省点」とは

 

しかし、この三・一運動を「全体として組織」し、「指導する階級や団体」はうまれなかった。

 

 

『대한민국 임시 정부 국무원 기념 사진(1919년 10월 11일).<大韓民国臨時政府 国務院記念写真(1919年10月11日)にて>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EB%AF%BC%EA%B5%AD_%EC%9E%84%EC%8B%9C_%EC%A0%95%EB%B6%80

 

日本の植民地体制を打ち崩すためには、さらなる多くの大衆が「強固な団結」を必要とし、民族ブルジョアジー自体も、大衆とふかく結びついて日本帝国主義と対決する道を進まず、革命的高揚のなかで、彼らを中心に『大韓民国臨時政府』が中国・上海で成立し、当初は朝鮮国内の運動とも一定の連携が保たれたが、日本の弾圧と、1919年9月斎藤実新総督が朝鮮に就任し、彼が標榜した『文化政治』(軍事的統治と同化政策のさらなる強化)によって、その運動は「変質」していく。

 

 

『第三代朝鮮総督 斎藤実』 

(사이토 마코토 총독의 교육시책<斎藤実総督の教育施策>より)

 

https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=manushya&logNo=130135605754&proxyReferer=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Furl%3Fsa%3Di%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dimages%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwjypN_0r5flAhVoGaYKHbPTARoQjhx6BAgBEAI%26url%3Dhttp%253A%252F%252Fm.blog.naver.com%252Fmanushya%252F130135605754%26psig%3DAOvVaw2zpNQjuQmXkEH1BrxWJXxp%26ust%3D1570991877047878

 

労働者階級も、独自にストライキを敢行して参加したとはいえ、それ自体「全国的に組織化」されたものでなく、まして「運動全体の組織者」ではありえませんでした。

 

かくして、三・一独立運動は「自然発生的性格」をぬぐい切れず、さらなる抗日闘争と反封建闘争を結合させて、農民たちのエネルギーを組織し発展させることも出来ていなかった。

 

 

・政治運動は「一朝一夕」にならぬが 確実に経験値を蓄えた朝鮮民衆

 

しかしながら、今まで類を見ない広範な大衆が、それぞれに自らを組織しはじめ、独自の行動を繰り広げながら、闘争を長期にわたって持続させ、都市も農村も「同時に巻き込む」全国的かつ全民族的な大規模運動に発展させたこと自体は、かつてない成果をもち、運動のなかで、大衆の前に「ブルジョア民族主義者の限界」が明らかにされたとき、朝鮮人の祖国解放運動は、歴史的にみて「新しい段階」に入ったことを意味しました。

 

時代の牽引者としては、先にも「運動の先頭」として登場した労働者たちが、その主役と躍り出ることになります。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

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