前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その14(腐敗政治とのたたかい 発展する大衆の民権意識)‐
・日露戦争と朝鮮の植民地化
『러일전쟁 당시의 정치풍자 그림엽서<露日戦争当時の政治風刺絵葉書>』(韓国語Wiki百科より)
https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EC%A0%9C%EA%B5%AD
「日本が朝鮮、満州、西比利を取れりと仮定せよ、之が福利を受くる者は、唯(た)だ政治家、資本家の階級ならんのみ、何の地位なく、些の資本なき多数労働者は、能(よ)く何事を為し得べき乎」
「否(い)な戦争は常に政治家、資本家の為めに戦はるゝのみ、領土や市場は常に政治家、資本家の為に開かるゝのみ、多数国民、多数労働者、多数貧者の与り知る所にあらざる也」
(『週刊平民』、一九〇四、八、二一「社会党の戦争観」)
‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐
『露日戦争』 (ナムウィキより)
https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%81
1904年2月8日、日本陸軍の臨時派遣隊が、突如、済物浦(現インチョン)より上陸し漢城(現ソウル)へ向かった。翌9月、連合艦隊が同沖でロシア艦隊を奇襲した。10日の宣戦布告を待たず、こうして日露戦争が始まった。
『Varyag and Korietz in Chemulpo』
(済物浦海戦より 出撃するロシア艦『ヴァリャーグ』と『コレーツ』)
この戦争は、朝鮮と中国東北地方の植民地支配を争った日露双方からの帝国主義戦争であり、その背後に「複雑な国際的列強間の対立と同盟」の関係をもった戦いでした。
『日露戦争の状況地図』
(赤い火柱は主要戦闘発生地/黒い点線矢印はロシア軍移動路/ピンク色の矢印は日本軍移動路) ※翻訳文字は筆者註
https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%81
戦局が日本に有利に進展すると同時に、1905年3月、社会主義者の幸徳秋水は、朝鮮で我が物顔に振舞う日本支配階級の実態を鋭く暴露しました。
『幸徳秋水』 (光文社古典新訳文庫より)
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/12/006557.html
「戦争の進行すると共に日本政府は朝鮮に手腕を伸ばしたり、陸軍大将長谷川某(それがし)は、戦勝国の余威を藉(借)りて京城(漢城=現・ソウル)を睥睨(へいげい=威圧しにらむ)しつゝあり、而して朝鮮官民の間には早くも之に対する不平不満の湧起(ゆうき=さかんに出ること)を免るゝこと能(あた)はざりき(=どうやってもできない)、即ち京畿道観察使崔益元(注)のごときは、之をもつて朝鮮の独立を危くするものと慨し、日韓議定書の破棄を上奏するにいたれり、『朝鮮の独立』これ独り朝鮮の問題のみに非ず、日露戦争の表面の理由は、実に露国の暴力を除きて朝鮮の独立を維持するに在りたれば也、故に義侠心ある日本人は朝鮮人の心を以て朝鮮独立問題を観ざるべからず、而して日本政府の成す所果して如何(いかが)、看よ駐韓公使林権助は昨九日(1905年3月━筆者)左の文書を韓廷(韓国の朝廷)に致したり」
「崔益鉉は日韓議定書に対して敢(あえ)て誹謗の言を試む、誠に善隣の交誼(親しい関わり)を破り国権を紊(みだ)さんとする者、又た許与(ホ・ヨ)は此上奏に参与したる証跡あり、共に官職を剥奪せらるべし、若し之を躊躇せんには、我は軍事上、相当の処分を為すべし」
「而して翌十日の夜日本の憲兵は崔益鉉(チェ・イクヒョン)、許与(ホ・ヨ)の二名を捕縛し、尚ほ、政府に取って不利益と認むべき韓廷官僚は陸続捕縛する筈なりといふ、此の如き日本政府の行動は果して『義戦』を誇称する日本国民の是認する所なりや否や、吾人(われら=幸徳ら日本の社会主義者)が戦争を以て侵略なりと言へるに対し、日本国民の多数は憤怒して曰く、否な正当防衛なり、朝鮮の独立を擁護する義戦なりと、故に義戦論者は、是非共吾人の質問に答へざるべからず」
『義戦論者に問ふ』
※()は筆者註
結局のところ、ロシアとの戦争が「欧米列強からのアジア防衛を防衛する『義戦』」と称することによって、自分たちの侵略的本質から目を逸らそうと躍起になって、言葉を濁していることを、幸徳秋水らは当時から指摘していました。
・ロシア敗戦の理由
『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 19頁より
先の大清帝国と同じく、ロシア帝国も時勢に取り残されたユーラシアの「旧式帝国」でした。
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐
一九二〇年のいくらか前、そしてすこしく後、ユーラシアに存した幾つかの帝国があいついで消えうせた。世界史上、まれに見る帝国消滅のときであった。
(中略)
まず、すでにいくらか触れたロマノフ王朝のロシアである。ロシア帝国は、ヨーロッパ列強どうしによる史上最初の真正面からの総力戦・消耗戦が展開するなかで、ほとんどみずからすりつぶれるように崩れ去った。戦局の激化につれ、複雑・多様な構成の「帝国臣民」たちを無理矢理に戦場と工場へと駆りたて、空前の大流血を強いた。沸点に達した民衆・諸民族の怨嗟といきどおりにくわえて、もともと不十分な国内産業力が過重な負担をささえきれず、開戦から三年にして意外に呆気なく自滅した。
ユーラシア東方においては、いかにも強大さをよそおうことができたロシアは、壮大な見せかけとはことなり、その実、社会・経済をはじめ、いたるところに危うさをもろさをかかえた「張り子の虎」の旧式帝国であった。
それが一気に弱点を露呈して、王朝・国家・社会ともどもにシステム崩壊したのであった。
『同』 18頁より
『러일전쟁<露日戦争>』 (ナムウィキより)
https://namu.wiki/w/%EB%9F%AC%EC%9D%BC%EC%A0%84%EC%9F%81
見かけは強そうだったけど、中身は「昔のまま」で、近代国民国家の「総力戦」の前に、オスマンやオーストリア・ハンガリー帝国も、同様の末路を辿ることになる。
・朝鮮の「すべての主権」を奪った日本
開戦と同時に、日本は韓国の『局外中立宣言』を無視して、朝鮮に兵をすすめ『日韓議定書』を押しつけた。1904年2月23日に締結された、この議定書は「韓国における日本軍の行動と軍事基地設置の自由を朝鮮に認めさせるもの」に他なりませんでした。
『1904년 한일의정서 강제체결<1904年 韓日議定書 強制締結>』
同年5月末、日本政府は「韓国ニ対シ政治上及軍事上ニ於テ保ノ実権ヲ収メ経済上ニ於テ益々利権ノ発展ヲ図ル」という『帝国ノ対韓方針』なるものを決定した。
ついで、『対韓施設網領』では、この基礎方針を具体化して「軍事・財政・外交・交通・通信機関の掌握から産業の支配」にいたる、全面的かつ系統的な朝鮮侵略方針を打ち立てた。
『伊藤博文』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87
この方針のもと、伊藤博文が特命大使となって朝鮮にのりこみ、これまでの韓国とロシアの条約を廃棄させ、ついで1904年8月23日には、いわゆる『第一次日韓協約』を締結させた。
かくして、韓国は以後「外交・財政に日本政府推薦の顧問を招聘(しょうへい=まねくこと)し、外交上の重要案件はすべて日本政府との協議の上で決定することを義務」づけられた。
日本は1910年に大韓帝国を完全に併合するまで、つぎつぎと「朝鮮の政治・経済のあらゆる分野に直接の支配」を強めていった。政治的には、まず財政・外交のみならず軍事・警察・教育などの「重要分野」に、日本顧問をおくりこんで、いわゆる『顧問政治』の支配をおこない、次いで1905年11月には、『第二次日韓協約=乙巳保護条約』を突きつけ、韓国の外交権を「完全に」奪い、統監府を設置した。
さらに2年後の1907年には、朝鮮の「内政」にまで支配権を確立させ、交通通信機関・司法・警察権なども「完全掌握」し、保安法・新聞法などの治安立法を相次いで公布した。
※第一次日韓協約(協定) https://www.unamwiki.org/w/%EC%A0%9C1%EC%B0%A8_%ED%95%9C%EC%9D%BC%ED%98%91%EC%A0%95(%EC%A0%84%EB%AC%B8)
※第二次日韓協約(乙巳保護条約) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EC%82%AC%EC%A1%B0%EC%95%BD
※第三次日韓協約(韓日新協約) http://m.blog.daum.net/dsgim2/12737616?tp_nil_a=2
『目賀田種太郎(華族男爵)』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%AE%E8%B3%80%E7%94%B0%E7%A8%AE%E5%A4%AA%E9%83%8E
経済的には、「財政顧問」に就任した目賀田種太郎によって、『貨幣管理事業』を強行し、「朝鮮の貨幣制度を日本の貨幣制度に合体」させ、日本の商品・貨幣流通の資本輸出の基礎を固めた。
そして、かの渋沢栄一が創業した『第一銀行(現みずほ銀行)』漢城(現ソウル)支店をが、「朝鮮の中央銀行」とされ、通貨発行権を握った帝国政府は、農工銀行・地方金融組合設置と結合して、韓国の金融的支配を確立させた。
日本帝国は江華島事件(1875年)以後、政治的に朝鮮の植民地化を加速させましたが、それと並行して経済的進出も強化。その中心的役割を果たしたのが渋沢の第一銀行で、1902年に第一銀行発行券を朝鮮の通貨とし、渋沢は自らその肖像画に収まりました。
「1902年には、事実上朝鮮の通貨として機能する第一銀行券の発行を朝鮮政府に認めさせ、金融的従属の一歩を進め、ついに1904年、『朝鮮は日本の生命線』と称して、ロシアに戦争をしかけるにいたった」(梶村秀樹著『朝鮮史』講談社現代新書)
『アリの一言』記事より
つづけて、『土地家屋証明規則の実施』によって、「朝鮮における日本人の土地所有権」が全面的に認められ、日本人による公然たる「土地略奪の道」が開かれた。
鉱山開発・森林業への独占的支配も強化され、帝国政府による「韓国の植民地化」の過程を見るとき、私たちは次のような点に注目しておく必要があります。
第一に、「日本のかつてない大量の正規軍が朝鮮に派遣」され、朝鮮駐屯軍司令官のもとで、民衆に対し「厳しい軍律が公布」され、朝鮮全土にわたる「直接的な軍事支配」を背景に、これが実行に移されたということです。
それまでの小規模な守備隊の力で、漢城(現ソウル)を一時的に支配して「親日的買弁政府」をつくろうとするようなやり方とは、本質的に異なっていた。
『가쓰라-태프트 밀약의 진실/왜 조선은 버림을 당했나?<桂=タフト密約の真実/なぜ朝鮮は見捨てられたのか?>』 ※翻訳文字は筆者註
http://m.blog.daum.net/bakduvillage/8298018?np_nil_b=1
第二に、1905年7月から9月にかけての『桂=タフト協定』『第二回日英同盟』『日露講和条約(ポーツマス条約)』などにみられるように、これが「列強の承認のもと」に行われた事実です。
つまり、日本が「アメリカのフィリピン支配」を認めると引き換えに、あるいは「大英帝国のインド支配」に協力することにより、その見返りとして「朝鮮の支配」を米英に承認してもらうことに、ますます「極東の憲兵」として、欧米列強の走狗的役割を演じることを意味した。
※現在も日本が「欧米のパシリである」と海外から指摘されている
またこれは、日露戦争後の「世界規模の新たな帝国主義列強と同盟と対抗関係」の不可分な一環にほかならず、朝鮮人民にとっては、列強の対立を利用して、反侵略闘争を有利に展開する条件が、ますます難しくなったことを意味します。
韓国名『ハーグ特使事件』(左から李儁<イ・ジュン>、李相卨<イ・サンソル>、李瑋鍾<イ・ウィジョン>)
このことは、1907年6月、併合が目前に迫った韓国において、高宗皇帝がオランダのハーグで開かれた『万国平和会議』に3人の密使をおくって、日本の侵略を列国に訴えて助けを求めようとした行動が、まったく効果がないどころか、逆に日本の侵略をいっそう激化させる結果におわったことにハッキリと表れています。
‐東アジアの今とこれから その5(朝鮮植民地化の社会主義者とマスコミの反応)‐
第三に、1910年の「併合」後、朝鮮でおこなわれた日本の植民地支配の前提となるようなものが、すべて「この過程で出来ていた」ということです。
軍事的な憲兵警察の支配も、土地調査事業の準備も、併合前の10年間に実施されています。
最後に、それでもなお日本の朝鮮侵略は、朝鮮民衆の強固な反日闘争にあい、これを徹底的に鎮圧することによって「併合」が強行できたのであり、したがって、それは当初より大きな矛盾を抱え、不安定なものにならざるえなかったことです。
これについては、次回の本格的義兵闘争によって明確化されていく。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
・『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社
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