前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐

 

 

・李朝末期 腐敗きわまる主体性なき政治

 

明成皇后(閔妃)暗殺事件と義兵の蜂起のなかで、中央政界が動揺し、軍隊が義兵鎮圧に動員されている間隙(かんげき)をぬって、李範晋<イポムジン>・李允用<イユニョン>・李完用<イワニョン>らが陰謀を企てられた。

 

 

※李模晋 https://namu.wiki/w/%EC%9D%B4%EB%B2%94%EC%A7%84

 

※李允用 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%9C%A4%EC%9A%A9_(1854%EB%85%84)

 

※李完用 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%99%84%EC%9A%A9

 

彼らは、1896年2月11日、 済物浦(現インチョン)に停泊中のロシア軍艦から兵を漢城(現ソウル)に引き入れ、高宗国王を脅迫して、ロシア公使館に移してしまった。

 

その中で、金弘集<キムホンジッ>・魚允中<オユンジュン>らは殺され、変わって保守派と手を組んだ李範晋・李完用らの親露派内閣が組織された。

 

結果、再び専制が強まり腐敗が進行した。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 185頁より

 

すでにみてきたように、彼らの手で数々の「利権」が列強に売り渡され、民衆の生活は壊され、朝鮮の独立はいよいよ危機に陥っていった。

 

 

・『独立協会』の発足

 

このような事態に直面して、なお朝鮮の独立を守り民主主義的改革のための運動を進めようとしたのは、徐載弼<ソチェピル>・尹致昊<ユンチホ>・李商在<イサンジェ>らの、急進的開化派の流れをくむ人々でした。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐

 

 

※徐載弼 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%84%9C%EC%9E%AC%ED%95%84

 

※尹致昊 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%A4%EC%B9%98%ED%98%B8

 

※李商在 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%83%81%EC%9E%AC

 

1896年4月7日朝鮮における最初の本格的な近代的民間新聞である『独立新聞<トンリッシンムン>』が、徐載弼らによって発刊されます。

 

ハングルで書かれたこの新聞は、朝鮮の独立と進歩人民の自由と権利を主張して、大衆に直接かたりかけ大きな影響を与えた。

 

ついで同年7月には、『独立教会』が結成され、この組織は「都市民大衆の参加」にしたがって、高級官僚のサロン的性格を脱し、しだいに政治結社としての性格を強め、やがて公然たる大衆的政治運動を組織していく。

 

 

『同』 190頁より

 

1898年3月独立教会の指導のもと漢城(現ソウル)鍾路<チョンノ>に、市民1万余りが結集して万民共同会が開かれた。大衆は、「ロシア顧問団の撤退」「朝鮮の独立」「民権の伸長」を要求して勝利をおさめた。ロシアの顧問団は引き揚げ、その朝鮮支配は後退を余儀なくされた。

 

大衆はさらに進んで、外資への「利権」売り渡し反対財政の整理と民主化裁判の公正憲法の施行と政治の民主化を要求して、10月には官民共同会を開かせた。

 

この独立教会万民共同会の運動は、列強にあと押しされた反動政府の、テロと軍隊・警察の鎮圧のまえに、翌1899年には解体させられてしまった。

 

それは、この運動が「漢城(現ソウル)に限られて」おり、農民大衆とは結合せず、地方都市にも広がっていなかったために、政府の弾圧に抵抗できる力をほとんど持ち得なかったことにもよる。

 

 

『山本太郎(れいわ新選組代表)おしゃべり会 北海道稚内 190919』 (動画23分10秒以後)

 

れいわ新選組

 

https://www.youtube.com/watch?v=wbSy_81_N3Y

 

なんだか、この話は現代にも通じるものがあって、とりわけ「政治の腐敗」が、先々どのような影響をおよぼすのか。殊にTPPや日米FTAなど、グローバル(多国籍)企業に対して、国富や日本で暮らす人々の権利を「売り払う」買弁政府による亡国ルートが、近代の朝鮮半島にあらわれていた。

 

‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐

 

 

・民権の拡大と 「大衆的政治参加」へむけた歩み

 

話をもどすと、独立教会や万民共同会は潰されましたが、かつての開化派のように「上からの」ブルジョア的改革をはかることが著しく困難になった段階で、自らの政治思想を直接、大胆に民衆に訴え、近代的民主主義と民族主義の思想を大衆のなかに広め、大衆の政治活動を組織していったところに、画期的な意義をもっていた。

 

近代的開化の思想は、大衆のなかに根を下ろし、のちの『愛国文化啓蒙活動』に受け継がれていきます。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐

 

一方、甲午農民反乱から義兵闘争に立ち上がった農民は、義兵の解散後も、独自の農民軍集団として各地に活動を続けていた。彼らは、封建支配者たちによって「東匪」「火賊」「西学」「南学」などと呼ばれたが、その本質農民の反封建・反侵略の武装闘争に他ならなかった。

 

その中でも、特に注目されるのが『活貧党』の存在であり、「貧民」に「活力」を与えるために、彼らは中部朝鮮一帯で、1900年ごろに活動した。彼らは「自然平等」「社会貧富の打破」「邦家の革新」を目的とし、「国政と民寃(みんえん)の一三条目」の綱領を掲げ、「富民之財」を没収し、「散施貧人」の運動を展開しました。

 

要は、「金持ちから一般市民へ」と、富の偏在を是正しようとしたわけです。

 

甲午農民戦争(東学農民運動)で掲げられた農民の要求は、この網領に受け継がれ発展させられていた。かつての民乱とは異なって、彼らの活動は地域的な制約をこえて範囲を広げ、その要求も「階級的な要求」にまとめられ、発展させられていった。

 

運動自体は、1896年以後、約10年間にわたって持続された。

 

このような農民軍集団の多様な活動は、散発的ではありましたが、1905年以後、本格化する大規模な義兵闘争を準備するものでした。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・Youtube動画 『山本太郎(れいわ新選組代表)おしゃべり会 北海道稚内 190919』 (動画23分10秒以後)


https://www.youtube.com/watch?v=wbSy_81_N3Y

 

 

<ツイッター>

 

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