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‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その8(日本資本主義は「朝鮮の犠牲」の上に成立した)‐
・「穀倉地帯」全羅道ではじまった 大規模な農民反乱 『甲午農民戦争(東学農民運動)』
『 동학 농민군 측에서 사용한 척왜양창의(斥倭洋倡義, 일본 세력과 서양 세력을 배척하고 의를 내세운다) 깃발 <東学農民軍側で使われた日本・西洋侵略者打倒>の旗』 (韓国語Wiki百科より)
https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8F%99%ED%95%99_%EB%86%8D%EB%AF%BC_%EC%9A%B4%EB%8F%99
水利増米の濫徴に反対して、全羅道古岐<チョルラドコブ>で始まった民乱は、当時(日本への)米穀輸出等をめぐって、最も矛盾が鋭くなっていた「この地域」の状況を反映し(全羅道の中心地は米作地帯であり、国家税米の大半を負っていた)、そして最も戦闘的に組織されつつあった『東学運動』の発展(政治的運動を主張して、教団内部で「北接」と大きく二つに対立した東学「南接」の主力は全羅道にあった)という主体条件が備わり、急速に大農民反乱へと拡大していきました。
『近現代史・동학농민운동의 배경과 전개과정, 의의<東学農民運動の背景と展開過程、その意義>』
いわゆる、『東学党の乱』として不当に「反乱の本質」を歪め呼びならわされてきた、近代史上最大の農民反乱は、甲午<カボ>の年(1894年)に前述してきたことを基礎にして発生したのです。
(注)日本では「東学党の乱」というよび名があたりまえのように使われているが、この言葉は当初、官憲側が「賊」よばわりする語感で用い、それをそのまま、日本人がかりて用いるようになってしまったもので、歴史的発展の可能性をはらんだ大農民反乱を、単なる矮少な宗教反乱のように誤解させるという意味でも、使うべきでない。なお、朝鮮では「甲午農民戦争」ともよばれているが、あまりヨーロッパの農民戦争と直結したイメージでとらえすぎないように、ここでは「甲午農民反乱」という用語に統一した。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 175頁より
『同』 176頁より
より鮮明な写真 韓国紙『中央日報』より
※画面右から二番目に担がれる人が全琫準<チョンポンジュン>
https://news.joins.com/article/17660449
官憲による矮小化を否定するものとして、数十万の農民軍を指揮した全琫準は、斬首前の法廷陳述ではっきりと述べ、民衆自身もそれに呼応していた。
「放棄したとき、虐政をうらんでいた人々も東学人も一緒にたちあがったが、東学人は少なく、虐政をうらんでいた人が多かったのだ」と。そして彼は、「多くの人々が苦しみ嘆いていたから、人々のために害を除こう」と広く決起をうながしたのであった。のちに民間に歌いつがれた童謡は、全琫準がいかに民衆の気持ちを適確にとらえたすぐれた指導者であったか、そして、朝鮮民衆がいかに彼を慕いつづけてきたかを暖かい詩情をただよわせて切々と歌いあげている。
鳥よ鳥よ青鳥よ
緑豆<ノットゥ>の畠におりたつな
緑豆の花がホロホロ散れば
青舗売り婆さん泣いて行く
(「緑豆」は全琫準の幼名で、「青舗」は豆を材料とする菓子)
※<>は筆者註
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 176頁より
・閔氏政権との和平条約 制度改革を促した『弊政改革条目』
『(地図に赤く塗られている部分は)第一次農民軍の活動地域/(地図にある青→は)第一次農民軍の進路』 ※日本語文字は筆者註 また年数に違いがありますが、他の韓国語サイトを見聞すると、『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂と同じ年月日でした。
『古岐郡<コブグン>の反乱』は、全琫準らが『倡義文』を各地に発したことによって「全羅道全体」に拡大し、隊伍をととのえた農民軍は官軍との全面対決に突入していった。
『甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%8D%88%E8%BE%B2%E6%B0%91%E6%88%A6%E4%BA%89
全羅道各郡に檄を飛ばして、たちまち1万人以上に膨れ上がった農民軍の主力は、1894年5月11日に『黄土峴<ファントヒョン>の戦闘』で官軍を破り、全羅道内の各郡邑を席巻していきます。地方営兵の敗報が続出すると、あわてた王朝支配者(閔氏一派)たちは、中央の精鋭部隊を投入しましたが、これもあっという間に敗北し、同年5月31日には、全羅道の首府全州が農民の手中におちた。
李朝政府は、官軍の主力が全州奪還に繰り出す一方、またしても「清軍の出兵」を要請する手段に訴えた。清軍が朝鮮に到着すると同時に、朝鮮侵略の機会をうかがっていた日本帝国主義は、清軍を上回る大兵団を投入し、日清戦争を挑発して、朝鮮植民地化の野望を露骨に現実化してきた。
しかし、これらの外国侵略軍とは直接戦闘を交えることなく、農民軍は全州攻防戦で官軍を退け、『全州和約』を1894年6月10日に締結させることに成功した。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 177頁より
この和約締結にあたって、『甲午改革』の文面にも影響をあたえた全般的な改革案が、農民軍側から提出されました。
いわゆる『弊政改革条目』です。
そこには「農民・商工業者の成長を拒む要因」となっている、「外国商人の侵略的商業活動」および「封建支配層の『苛歛誅求(かれんちゅうきゅう)』」に対する、いくつもの「具体的批判と撤廃要求」が盛られていました。
それだけではありません。
「奴婢文書の焼棄」など、封建的な身分制度撤廃の要求も強く押し出され、さらに重要なことは、これを「農民たちが自らの要求をつらぬくため」に、全羅道すべての郡に『執網所』という農民的自治機関を設置することを、朝鮮政府に認めさせたことで、これよりしばらくの間、全羅道には特殊な「二重権力状態」が生み出された。
執網所は、農民軍より指名された「執網」のほか「議事」などによって構成され、形式的には在来の地方官庁に対する監視機関ですが、実質的には独自の地方権力に近い役割を果たした。
そこでは、「官衙(かんが=官庁・役所)と民間に残っている武器と馬を集め、護衛軍を組織して万一に備える一方、奴婢文書の償却、債務関係の取り消しなど」(『朝鮮近代革命運動史』)を実行していきます。
・東学運動の「悲惨な最後」 しかし近代民主化闘争として朝鮮人の血肉となった「貴重な経験」
しかし、それもつかの間、すでに日本侵略者による「朝鮮植民地化の危機」が刻々と深まっていったこの時期、40万にものぼる農民軍が、侵略者打倒を主目標にして、急ぎ再蜂起することになった。
内部の統一が十分に固められないまま、しかも軍事的には圧倒的劣勢を免れなかった農民軍は、日本・朝鮮政府の反動連合軍に対して果敢に攻撃を加えたたかいましたが、その結果は悲惨であった。
『장흥신문<チャンフン新聞>』より
http://www.jhnews.co.kr/news/articleView.html?idxno=456050
『東学軍(農民軍)との戦闘に参加した日本軍人たちの姿』 (大巡會報<テスンフェポ>より)
http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=1
1894年11月末の公州<コンジュ>(忠清道の首府)における敗北を境にし、農民軍部隊は各個に打ち倒されていった。そして、正確な記録は残されていませんが、3、40万人もの民衆の生命が奪われたといわれ、「東学軍参加者の財産はすべて官吏のものとなり、家屋などは灰燼に帰し、その他婦女の強奪・凌辱などはとても筆につくせないほどであった」(『東学史』二二八ページ)とされています。
このような朝鮮民衆の『近代のいぶき』を象徴した大規模な農民闘争は、侵略軍が中心となった「掃討作戦」によって終息させられていったのでした。
『甲午農民戦争(東学農民運動/甲午農民反乱)』における、「農民軍の敗北」は、李氏朝鮮封建制度の「最終的解体」を決定づけ、それに代わるものを築こうとしたところを、「外からの物理力」によって阻まれてしまったことを意味します。
つまる「反乱の結果」は、朝鮮民衆の多大な血の犠牲に上に、「朝鮮植民地化へのコース」が敷かれていくことを確定づけるものとなった。
しかし、ここで示された反侵略の闘争力量は、朝鮮民衆の貴重な歴史的遺産となり、反侵略の闘争が主要な課題となった次の時期には、『義兵闘争<ウィピョントゥジェン>』や『三・一運動<サミルウンドン>』などの、数々の革命運動や民族・民主化運動の「原動力」となって、さらに根をおろし、幅を広げて受け継がれていきました。
・自分なりの結論
このように、都合の悪い過去はひたすら見ないフリをして、当事者たち抜きの解釈で、いつまでも政治や歴史を語るのなら、もはや日本にとって悲劇でしかない。
Will you accept a presence of foreign military?②
モノリンガルゆえに、自分たちが「今どのような立場にあるのか」について、世界レベルにおいて反証と是正が急務となるこの時期に、狭い国内では、概ね右や左、その他にカテゴライズされている人たちにせよ、現象として「お上に与えられた情報」だけを世の中に拡散され、そうした濁りきった汚い水が日本社会に溢れることによって、人間自体も腐っていくのだ。
『山田洋次監督のことば』 (友人のLINE画像より)
腐敗し、売国的で排外的な現政権に、今このときこそ、過去の朝鮮民衆の軌跡に倣って、ひとりひとりの日本人の「意識改革」が求められていると思います。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事
https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html
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