前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐
・奪われる国益 列強の「経済植民地」と化した朝鮮
1880年代に入ると、農民層・新興商人層などの社会改革を求める志向と、李氏朝鮮封建層の古い構造とのあいだの矛盾は、ますます深くなり、鋭くなった。
そしてまた、農民層や新興商人層にとって、日本や清の経済的浸透とも対立し、これへの従属化の道を克服しなければ、自らの成長は望めない段階に来ていました。
1882年の『朝清水陸貿易章程』によって、「清国商人の内陸行商権が確立」されたのに続き、1883年の『朝英条約』は「朝鮮国内の行商権をさらに広く開放」した。
なお同年には、アメリカとドイツが、翌1884年にはロシアとイタリア、そして1886年にはフランスが侵出し、朝鮮との不平等条約を結ぶことに成功した。
・朝鮮を食い物に国権を拡張しつづけた日本
『川上音二郎(作)・オッペケペー節 / 土取利行(唄・演奏)』
https://www.youtube.com/watch?v=PzY_vMTnFLY
洋語をならふて開化ぶり。バンくふばかりが改良でねへ。自由の権利をこうてうし。國威をはるのが急務(きうむ)だよ。ちしきとちしきのくらべやゐ。キョロ/\いたしちや居られなゐ。窮理と発明のさきがけで。 異國におとらずやッつけろ。神國名義だ日本ポー
『オッペケペー節』(明治時代の流行歌 1889年作詞 Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%83%E3%83%9A%E3%82%B1%E3%83%9A%E3%83%BC%E7%AF%80
しかし、この時期における経済的侵略(それは朝鮮の封建的な領主経済構造の解体と、商品経済の発達を一面より促進すると同時に、自国における農民・商工業者のブルジョア的成長を阻止する役割を果たした)の「主な担い手」は、日本人および清国人商人でした。
※清の頽落と冊封体制崩壊について
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐
彼らは綿製品などの仲介貿易に従事し、朝鮮民衆の経済的成長とは相いれない歪んだ商品経済化を促す一方、特に日本人の商人たちは、穀物・金などを強奪的に持ち出して、日本資本主義の尖兵的役割を十二分に発揮した。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂173頁より
たとえば、日本資本主義の「金本位制への移行」にとって、欠くことのできなかった「金準備」は、朝鮮開港後の最も大きな部分が「朝鮮から輸入される金」によってまかなわれた。
朝鮮産金(ゴールド)が、日本の資本主義成立に果たした重みは、表にみるように誰が見ても明らかです。朝鮮の富を犠牲にし、日本資本主義は肥え太っていった。
在日コリアンの友人のお父さまが、ワイン関係の仕事先で、フランス人の方々と家族ぐるみの付き合いで親しくされていますが、そこの話によると、妻の祖母が昔(父の代)にアルジェリアで鉄道事業を経営し、中世の古城をいくつも所有されていたそうです(現在ではほとんど売却してしまいましたが)。そうした「宗主国側」の実体験を通じ「当時のフランスは植民地でとてつもなく儲けた」と、貴重なお話をして下さりました。
つまり、そういうことです。
産業革命以後における、「生産能力の飛躍的拡大」は、製品を作り出すための材料を膨大に必要とし、結果、加工のための「資源大量獲得」を目指し、同時にそれらの「消費先」を抑えることが優先されました。それは欧米列強の「植民地獲得競争」へと繋がり、グローバル規模の植民地経営の進展にともなって成長する金融資本です。
無論、これに「戦争はつきもの」です。
後の時代になると、これら植民地を保有する帝国群の「ブロック経済化」が進み、相互依存性はなく、恐慌を乗り越えるために、さらなる戦争へと突き進んだのが、ドイツや日本を含めた『第二次世界大戦』でした。
話がそれてしまいましたが、朝鮮では1890年代を転機として「日本への穀物の大量の持ち出し」がはじまった。
それまで100万円台を上下していた日本への輸出金が、1890年に入って、一気に400万円台までに跳ね上がった。半ば強制的な米穀の「買占め」が、日本人の手によってなされるに至った。
『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93
この穀物大量搬出に対しては、すでに1880年代から各地で防穀令事件が発生していた。
『同』 174頁より
封建支配者たちは、穀物搬出が在来の流通機構を破壊することを恐れてこれに反対したが、農民や都市小市民の生計悪化は、彼らをして反侵略のたたかいの必要性を、ますます強烈に意識させるようになりました。
同様の事態は、手工業部門においてもみられ、日本産綿布が朝鮮在来の綿工業の発展を圧迫するなど、破壊的な事態がいちだんと強まっていった。
つまり、このころの朝鮮では、「植民地化の危機」に際し、成長しつつあった民衆の力を結集して、これに克服するか。あるいは、それに呑み込まれてしまうのかという、重大な瀬戸際の時期に差し掛かっていたのです。
・「国家的危機」の前に登場した『東学思想』
このようなとき、下層民衆の願いを幅広く組織し、全国的に「横のつながり」をつける上で、重要な役割を果たしたのが『東学』でした。
『최제우 초상<崔濟愚肖像>』
조선후기 인내천의 교리를 중심으로 한 동학을 창도한 종교창시자.
<朝鮮後期に『人乃天』の教理を中心にした東学の宗教創始者 >
『한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>』より
http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0057640
以前、拙ブログにおける北朝鮮政治のお話をしたとき、『天道教青友党』という政党が出てきましたが、その淵源は崔済愚<チェジェウ>の東学思想に由来します。
天道教は一八六〇年に崔済愚が創始した「東学」が一九〇六年に改称したもので、その信者は一八九四年の「甲午農民戦争」(いわゆる「東学党の乱」)、一九一九年の三・一事件、さらにその後の反日運動のなかで重要な役割りを果たしてきた。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188頁より
‐シリーズ・北朝鮮に政党はあるのか 最終回(朝鮮民主党・天道教青友党・祖国統一民主主義戦線)‐
この東学の運動は、表面的には「宗教的結集」という性格を持ちつつも、その中には「反封建」「反侵略」という、当時の民衆意識を豊かに内包していた。
ゆえに、それが民衆の政治的結集をうながすための「有力な武器」となりえたのです。
殺された教組崔済愚の『伸寃運動』(逆族の汚名を政府に撤回させ、教団の合法化を要求する運動)が数千名を集める参礼集会<チャムレチップェ>(1892年)となり、それが翌年の報恩集会<ポウンチップェ>では2万名以上もの民衆が参加して、全面に押し出すものとなりました(参礼・報恩はいずれも集会の行われた地名)。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
・Youtube動画 『川上音二郎(作)・オッペケペー節 / 土取利行(唄・演奏)』
https://www.youtube.com/watch?v=PzY_vMTnFLY
・한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典> 『최제우(崔濟愚)』記事
http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0057640
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
ブログランキングに参加しております。
皆さまのご支援が頂けるとありがたいです
(下のバナーをクリック)