前回までは、明治時代における征韓論者の朝鮮観を紹介しました。


征韓論で敗退下野した板垣・後藤・江藤らは、翌明治7年(1874年)に民選議院設立の建白書を出し、各地に遊説しました。その中で『立志社』『愛国社』『玄洋社』などの政治団体が方々で結成され、自由民権の運動が全国に起こりました。


自由民権を提唱した板垣・江藤らは、本来征韓論の強行な主張者であり、その意識において「民権は国権に従属し国権の拡充によって民権が成立する」のであり、対外発展は国権を実現する最も有効な手段であるとしました。したがって、民権の主張は「海外侵略」「征韓論」と何ら矛盾しませんでした。


ゆえに、初期の民権運動に猛烈な征韓論があったのは当然であり、例えば江藤新平明治7年に佐賀で『征韓党』の首領となり、兵をあげて政府に反抗しました。



その声明文の中に「さきに朝鮮わが国書をしりぞけ、わが国使を辱しむ。その暴慢無礼、実(まこと)にいうに忍びず、上は聖上をはじめ、下は億兆に至るまで、無前の大恥を受く。よって客歳十月、廟謨(びょうぼ=朝廷の政策)尽く征韓に決す。天下これをきいて奮起せざるものなし。己にして二三の大臣偸安(とうあん=安楽を貪り、将来を考えないこと)の説を主張し、聖明を壅閉(ようへい)し奉り、ついにその議を沮息せり。嗚呼、国権を失うこと実(まこと)に無極に至る。・・・・・・苟も(卑しくも)斯(こ)の如き失体(失態)を極めば、これよりして海外各国の軽侮を招く、その底止(停止)する所知らず、必ず交際・裁判・通商・凡(およ)そ百事みな彼が制限するところとなり、数年ならずして、全国の生霊、卑屈狡獪(こうかい=悪賢い)ついに貧困流離の極に至るは、鏡にかけて見るが如し」と言っています。


今から見ると難しい漢字や語句ばかりの仰々しい文ですが、結局言いたいことは「朝鮮のクセに、この誇り高き日本帝国を上から下まで馬鹿にしやがった。生意気で無礼だ。こりゃあ一発シメてやらんと気が済まん。国家権力もクソもあったモンか、この有様じゃあ海外の列強の連中に馬鹿にされる」という、スケール的にはオレさまのメンツを汚したから、他のシマの連中に舐めらるという完全なる不良の発想であり、その程度の内容でしかありませんし、幕末以来の侵略論とどこも変わっていません。


無論、こういう風潮はその後も続き、江華島事件が起こった時に強硬な朝鮮征服論を唱えた過激民権派でした。


結局のところは、こいつらの魂胆として「頑迷」な朝鮮を征服して日本の領土とし、それによって欧米に比肩すべしという主張でしかなく、自由民権と海外侵略とは決して矛盾するものではありませんでした。



<参考資料>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房