前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その5(閔氏政権と日朝修好条規)‐

 

 

・日本の砲艦貿易 荒廃する朝鮮市場

 

 

『강화도 조약 체결 모습<江華島条約締結の模様>』 (우리역사넷<ウリヨッサネット>より)

 

http://contents.history.go.kr/front/ti/view.do?treeId=06024&levelId=ti_024_0010

 

 

『강화도 조약<江華島条約>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%95%ED%99%94%EB%8F%84_%EC%A1%B0%EC%95%BD

 

1876年の江華日朝修好条規)以来、日本の略奪的な対朝鮮貿易は、はやくも従来の生産と生活の体系を激動させ、急速に朝鮮人民の「反日感情」が高まっていった。

 

条約上認められた活動範囲は、居留地内に限られていたため、日本商人は内陸から出てくる朝鮮商人を利用して暴利を追求した。

 

軍艦を背景とする「げんこつ商法」で、金の地金と生活必需品である農・漁産物を安い価値で持ち出し、繊維品を中心とした外国商品を高い価格で持ち込むという不等価交換の商業利益をあげた。

 

このため朝鮮の手工業者は没落し、都市民衆の物価騰貴に苦しみ、農民の生活も変容を強いられた。

 

 

・無能の極み 閔氏政権による「朝鮮の舵取り」

 

こういう状態を、時の閔氏政権無策のまま放置し、むしろ商品経済の波に呑まれて腐敗と浪費を強めたことは、民族的危機を倍増させました。

 

しかも、閔氏政権は、1881年ごろから旧体制を維持したまま、欧米列強にさらに広く国をひらく決意をした。それと同時に、微温的ながらも開化思想をもつ官僚であった金弘集<キムホンジッ>と魚允中<オユンジュン>らの意見をも、技術的な面に限って受け入れるようになった。

 

それは、このような「および腰の開国=近代化」が、かえって民族的危機を深めることを憂いた崔益鉉<チェイッキョン>ら両班儒生の、『衛正斥邪運動<ウィジョンチョッサウンドン>』(攘夷思想にもとづく政府批判の運動)を激発させる契機となります。

 

 

・旧軍への「圧迫」 壬午の軍人反乱

 

特に、1881年4月日本の介入を受け入れて軍制を改め「新式軍隊」として『別技軍<ピョルギグン>』を設け、日本陸軍少尉の堀本礼造を教官として招いたことは、民衆にとっての大きな問題になった。

 

 

『별기군(別技軍)』

 

https://forseason.tistory.com/11332

 

失業する運命にある旧軍隊の兵士の不満は、増大していきます。そのうえ、堀本が故意に別技軍を漢城(現ソウル)内で訓練して、市民の反感を増幅させていた。

 

 

『日本から招聘の軍人将校により指導の韓国の新式軍隊「別技軍」』

 

https://jaa2100.org/entry/detail/044982.html

 

新式軍隊の支出が増大した結果、旧軍隊の一般兵たちの奉祿米(給料)13ヵ月もストップされた。そして、1882年7月にやっと1ヵ月分が支給されたと思ったら、役人の中間搾取もあって、米の半分は砂などが混じっていたため、いよいよ兵士たちの怒りが爆発します。

 

その矛先閔氏政権に向けられ、武器を取って立ち上がりました。

 

日本から経済侵略を受けていた漢城(現ソウル)では、その被害は甚大で、民衆も旧軍兵士らと呼応し、反乱に合流していきます。

 

結果、閔氏政権は崩壊し、反閔氏勢力として捕らわれていた人々を解放しました。さらに、兵士らの攻撃は、大本である日本人侵略者にも向けられ、堀本らを殺傷した。

 

 

『花房義質』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%88%BF%E7%BE%A9%E8%B3%AA

 

 

『在朝日本公使館弁理公使だった花房義質』 (同より)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1

 

当時、日本公使である花房義質(はなぶさよしもと)らは、済物浦(現インチョン)に逃走しましたが、そこでも民衆の攻撃を受け、急遽イギリスの測量艦に乗って、命からがら長崎へ落ち延びました。

 

 

『小舟で朝鮮を脱出した花房はじめ公使館員』 (同より)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E5%8D%88%E8%BB%8D%E4%B9%B1

 

この朝鮮人民の侵略者と、それに従属する腐敗政権に対するたたかいは、朝鮮開国後最初の『愛国・反日の民衆闘争』の先駆けとして、高く評価されねばなりません。

 

 

・第二次大院君政権の成立

 

 

『興宣大院君』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%AE%A3%E5%A4%A7%E9%99%A2%E5%90%9B

 

日本の侵略者を叩き出した漢城(現ソウル)では、兵士に信望ある李是応(大院君)が推されて再び政権に就き、それによって反乱は収束された。

 

新政権は、日本への無策な屈服の結果を正す施策にさっそく着手した。

 

軍制は旧制度にもどされ、各種都賈(買占め/トガ・とこ)は禁止された。この都賈とは、日本商人の代理人となって、受託販売・購買をおこなう特権的買弁商人のギルドでした。

 

また褓負商<ボブサン>を政府のもとに公認して、政権の一基盤とし、監督・保護するようにして、翌年には、そのための『恵商公局<ヘサンコングッ>』が設けられた。

 

第二次李是応政権の施策も、主観的には王権強化を目指すものでしたが、民衆の抗日・反閔闘争と一定の合致点がありました。外国勢力を迎えつつ、主体的に近代化政策を取ることを否定した衛正斥邪論者と通ずる面もありますが、西洋化と侵略の一体化への反対闘争としての意義は高く評価されるべきでしょう。

 

 

・日清両国の介入により崩壊した大院君政権

 

ところが、この政変を「自国の勢力拡張」の機会とみた、日清両国の介入は、一ヵ月足らずで、この李是応政権を崩壊させてしまう。そして、再び閔氏一族の政権が復活したことは、その後の朝鮮社会に「大きな打撃」を与えた。

 

すなわち、前述において日本に逃れた花房公使は、再び陸海軍を率いて朝鮮に向かいましたが、反侵略的な李是応(大院君)との話し合いは避けていました。一方、清国洋務派政権も、金允植<キムユンシッ>や魚允中<オユンジュン>の「出兵の要請」を理由に、漢城(現ソウル)に軍を派遣した。

 

清国の軍隊は、1882年8月26日、李是応(大院君)を捕らえて、自国の天津に監禁します。また、反乱の拠点となった往十里<ワンジュリ>・梨泰院<イテウォン>地区を攻撃し、多数の民衆を殺傷しました。この両地区は、漢城(現ソウル)の東郊外にあり、兵士の家族が多く、農民出身者や下層貧民が住民のほとんどでした。

 

 

・西洋帝国主義に感化され 崩壊した中国の「冊封体制」

 

このような清軍の悪行の前に、いくら朝鮮政府の要人や閔氏派の「救援要請」にしろ、ここまで露骨に内政干渉を行うのは異例です。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐

 

本来の北東アジアにおける冊封体制とは、上記で詳細を示しましたが、名目的であり、現実的な同盟関係によって成り立っていた。朝貢国宗主国から大いなる財物と先進文化を手に入れ、軍事面でも、かつて豊臣秀吉が朝鮮を侵略したときも、明は救援軍をまわし、10万人の戦死者と1000万両(タール)の戦費を費やした。

 

しかしながら、アヘン・アロー戦争で、列強の前度重なる屈服をつづけ、国内政治も衰亡の兆しが見えてきた清(中国)において、もはやかつての「余裕」はなく、否応なく欧米諸国との国際関係に「組み込まれていく」中で、伝統的な冊封体制「ヨーロッパ的な支配従属関係に読み替えて行った」ことに尽きる。

 

本来、東アジア秩序の中において、徳や義によって、大国と小国は共存しあってきたが、今や清(中国)は、朝鮮を「欧米式の属国」として取り扱うようになります。

 

下の記事は、中国衰退によって生まれた悲劇について、英語ブロガーMichikoさんが縷述されています。

 

明は、なぜ琉球を助けられなかったのか~ある中国人男性から沖縄の人へのメッセージ~

 

氏は、卓越した英語力をもとに、インターネットを通じて、世界各地・各分野における中国の方々と6年以上にわたって交流し、この地における歴史や作法(振舞い/行動様式)を含め、そうした「実感」を肌感覚で蓄えられていかれた。

 

 

・『済物浦条約』の締結 壬午軍人反乱の総括

 

清国による李是応(大院君)の拉致は、日本の対朝鮮干渉における「障害」を無くし、江華条約締結以来の「懸案」を一気に「解決」した。

 

愚かな清の外交によって、北東アジアはいよいよ「帝国主義の角逐場」と化す。

 

 

 

『제물포 조약<済物浦条約>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%A0%9C%EB%AC%BC%ED%8F%AC_%EC%A1%B0%EC%95%BD

 

『済物浦条約<チェムルポチョヤッ>』(済物浦は仁川<インチョン>の旧名)で、朝鮮から賠償金を取り、漢城(現ソウル)における軍隊の駐屯権を獲得した。さらには、それぞれ自国の急速な近代化のはけ口を求める、日本と清国の対立朝鮮を舞台にして展開されるようになった。

 

壬午軍人反乱は、日本の侵略閔氏一族の腐敗的かつ売国的政権への反乱であり、朝鮮における最初の大規模な反侵略民衆運動でしたが、その後の日本の侵略と、落ちぶれた清国の内戦干渉政策、そして閔氏政権の再登場は、何重にもわたる民族的危機をさらに深めました。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・Cluttered talk blab blab blab 『明は、なぜ琉球を助けられなかったのか~ある中国人男性から沖縄の人へのメッセージ~』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12393503892.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----cluttered-talk_12393503892

 

 

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