前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐

 

 

・突然の朝鮮開国 その時欧米列強はどういう態度を取ったのか

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐

 

欧米との戦争で一度も負けなし。「勝率100%」の朝鮮が、自分たちよりも「はるかに格下」である日本に屈服したこと、時の政権が閔氏一族による弱腰外交が原因だったにせよ、李是応(大院君)政権時代の断乎たる態度に触れた列強は、朝鮮に容易く手出しはできないと考えていた。

 

また、朝鮮政府内部の手がかりを掴むだけの知識もないので、日本がまず突破口を開くことを期待するようになっていた。列強は、当時の日本の経済状況からみて、たとえ後から朝鮮に侵入しても、たやすく日本から市場を奪うことができるとみていたのだろう。

 

 

『ジョン・A・ビンガム』

 

https://jp.usembassy.gov/ja/our-relationship-ja/former-ambassadors-ja/

 

特に、米英は日本の朝鮮侵略の企図に好意的で、アメリカの駐日公使ビンガムは、1875年『雲揚号事件』に先立ち外務省に訪れ、ティーラー著『ペリーの日本遠征小史』を手渡しながら、「この本をよく読んでこのとおりにやりさえすれば、朝鮮で必ず成功するでしょう」(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 161頁より)と暗示したとさえ言われる。

 

もちろん、このようなことがあったからといって、明治政府の独自の侵略的企図が免罪されるわけではない。米英の態度を背景に、安心して雲揚号事件に乗り出すに至ったのでした。

 

 

・大院君失脚後 「一変した」朝鮮政府の状況

 

 

『明成皇后(閔妃)』 (コトバンクより)

 

https://kotobank.jp/word/%E9%96%94%E5%A6%83-122167

 

李是応(大院君)政権は、当初「日本と協力して欧米の侵略に立ち向かうことを期待していた」とされるが、日本の朝野をおおう『征韓論』が聞こえてくるにつれ、警戒を高めないわけにはいかず、明治維新直後から、日本がしばしば派遣した新条約締結のための使節にも、侵略の危険を見通して「拒否の回答」を与えた。

 

ところが、1873年閔氏が政権に就くことによって、状況が変わった。

 

閔氏政権内部にも、朴珪寿<パクキュス>のように、開国が不可避な以上、内部条件を整えて、主導的に開国することを主張した人もいたが、政権の大勢、その階級的制約上、保守的であるとともに対外的には場当たり的、屈服的に傾いた。

 

先見の明がある指導者がいなかったのでも、朝鮮人が世界の推移を知らなかったのでもなく、政権を独占していた閔氏一族の「この性格」が、日本に「付け込む隙」を与えたのです。

 

 

・日本による「侵略の手口」の詳細

 

いちはやく、この「変動」を察知したのが、日本の出先外交官たちでした。

 

1875年4月広津弘信・森山茂の両名は以下のように述べます。

 

「軍艦を派遣し対馬近海を測量せしめ以って朝鮮国の内訌<内紛>に乗じ以って我が応接(外交交渉)の声援を為さんことを請うの議」

 

※<>は筆者註

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 161頁より

 

このように日本政府に建言し、同年7月には重ねてさらに強硬な意見書を送ってきた。

 

 

『井上良馨』 (Wikiより)  

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E8%89%AF%E9%A6%A8

 

かくして、海軍当局はおそらく「政府の了解」のもとに、「朝鮮近海測量のため」井上良馨(いのうえよしか)を艦長とする軍艦雲揚号を派遣することになったのです。

 

 

『雲揚号』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%B2%E6%8F%9A_(%E7%A0%B2%E8%89%A6)

 

雲揚号1875年9月19日江華島に近づき「飲料水を探すため」という名目でボートを降ろし、陸に接岸しようとした。見とがめた朝鮮側の砲台警砲を発射したのを機に、木船から砲撃し砲台を破壊し、さらに永宗島<ヨンジョンド>に上陸して損害を与えた末、9月28日長崎に帰った。

 

そもそも、新政府となって国交のない国の沿岸を無断で測量し、ボートで接近すること自体無法な行為ですが、飲料水がなくなったはずなのに帰港するまで特別補給していないことからみても、明らかな「計画的な武力脅迫行為」と言わざる得ません。

 

 

・守旧で脆弱な閔氏政権 『日朝修好条規』の内訳

 

はたして閔氏政権内部では動揺がおこった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その4(開国と征韓論)‐

 

これを見すまして、翌年1876年、全権黒田清隆は7隻の艦隊に数百の兵士を分乗させ、朝鮮近海で示威演習をしながら江華府に乗り込んだ。

 

そして、軍事侵略の意図をにおわせながら、有無を言わさず日本側が用意した条約案に調印することを迫った。

 

そして閔氏政権は、当面の武力侵攻の回避に気を奪われていたので、条約案の内容を論ずるいとまもなく、その場しのぎ的に、これを「ほぼそのまま受け入れてしまった」のです。

 

 

『条約締結の情景』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F

 

かくして結ばれた条約は、「全く一方的に日本の要求に沿う不平等条約」でした。

 

一般に「江華条約」と通称されているものは、厳密には、この本条約(『日朝修好条規』)と、それに基づいて同年中に調印された『修好条規付録』『日朝通商章程』および、それら付属文書などの総称である場合が多い。

 

が、上述を通じてみると、開港地における日本商民の居留地設定(本条約四、五款、付録)など、居留民に対する日本の管理官による「管理」(本条約八款)居留地での日本貨幣通用(付録)日本居留民の犯罪に朝鮮政府が手出しできない、いわゆる治外法権(本条約十款)、そして日本から朝鮮へ輸出される商品にいっさい関税を課さないという取り決め(修好条規付属往復文書)などの不平等条項を含んでいました。

 

特に、最後の『無関税貿易条項』は、1883年、清国などの朝鮮との条約に準拠して新たに通商章程が結ばれるまで続いたが、朝鮮政府が日本商品に関税をかける権利自体を認めないというのだから、日本が欧米に強いられた関税自主権喪失よりもはるかにひどい内容です。

 

実際、この条項と軍艦に守られて、いわゆる『一旗組居留地商人』の暴力的商法が、朝鮮の国家主権を無視して押し通され、朝鮮民衆の生活を破壊してしくようになります。

 

 

・立ち上がる朝鮮の民衆と両班層

 

このような状況に、すでに反封建闘争に立ち上がりはじめていた朝鮮民衆は言うまでもなく、両班支配層も強い危機感を抱かざるえなかった。

 

1880年に来日した修信使の金弘集<キムホンジッ>からは、不平等条約の是正を提議しましたが、日本側はこれを無視した。このような「民族的危機」に対応することを目指して、支配層の内部では、『衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>』『開化派<ケファパ>』などの政治潮流が、急速に成長していくようになります。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

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