前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その3(丙寅・辛未の洋擾)‐

 

 

 

『朝鮮政府代表 申櫶<シンホン> 日本特命全権大使 黒田清隆』 (오마이뉴스<オマイニュース>とWikiより)

 

http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/img_pg.aspx?CNTN_CD=IE001795778&tag=%EC%8B%A0%ED%97%8C&gb=tag

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E9%9A%86

 

 

・「雲揚号事件」と江華条約(1876)

 

1876年2月27日日本の特命全権大使黒田清隆朝鮮政府の代表申櫶<シンホン>とのあいだで、漢城(現ソウル)近郊の江華府<カンファブ>において調印された『大日本国大朝鮮国修好条規』(いわゆる江華条約。上記が正式の条約名で、略称するとすれば『日朝修好条規』である。教科書などで『日鮮修好条規』と記したものがあるが、こういう略称を用いるべき何の根拠もなく、蔑視観からくる誤った言葉である。なお調印地をとって通称で呼ぶとすれば江華府で調印されたのだから江華条約とよぶべきで、よく江華島条約という通称が用いられているのも、よい言葉とはいえない)

 

‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論③)‐

 

これに先立ち、西郷らの下野から約半年が経った明治7年4月に、帝国政府(日本)は台湾に出兵しました。


これは西郷らの征韓論「台湾に向けて実行したもの」でした。

 

 

『永宗城を攻撃する雲揚の兵士ら(想像図)』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E8%8F%AF%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

つづいて翌8年(1875年)には、『江華島事件』が起こりました。日本軍艦雲揚号が朝鮮の西南部海岸を測量し、江華島の水域に不法侵入しました。ここは首都の入り口にあたる要塞地帯で、もちろん「外国艦艇の侵入は禁止」されておりました。


朝鮮側の砲台は発砲し、これに雲揚号は直ちに応戦して砲台を壊しました。

 

この江華島事件が起こると、大久保・岩倉の政府は黒田清隆を全権大臣に任命し、軍艦・輸送船をひきいて朝鮮に派遣し、開戦の覚悟の強行談判を始めました。このときの強硬政策については、さきに征韓論を主張した西郷でさえ、道理に外れたもので、弱きをあなどるものと批判しました。

 

西郷の征韓論に反対した岩倉や大久保は、当の西郷が文句を言うほど強硬な征韓政策を取ったのです。


この談判で、翌明治9年(1876年)江華条約が結ばれ、朝鮮は日本に開港しました。

 

本条約は、「朝鮮の鎖国を破る最初の条約」であるとともに、「日本が朝鮮を侵略する第一歩を画するために強要した不平等条約」でした。

 

その内容は、幕末に欧米が日本に押し付けた不平等条約のひきうつし、というより、正確にいえばそれよりさらに甚だしい不平等条約です。

 

そのきっかけとなった1875年『雲揚号事件』は、日本側が「計画的に引き起こした脅迫のための軍事挑発」に原因するものであり、ペリーが江戸幕府を脅迫した手法をそのまま真似たものだった。

 

この条約の本文、付録、貿易章程によると、領事裁判権・関税免除・日本貨幣の使用公認など、まさに不平等条約そのものでした。

 

 

・世界から「浮きまくる国」日本

 

‐3度目の朝米首脳会談(板門店)とG20で安倍首相がかいた「大恥」‐

 

【凄まじい無視のされ方】28日のG20大阪、各国首脳の記念撮影で安倍さんは何回人と接触(会話や握手、ハグ等)するでしょう?

 

https://togetter.com/li/1371129

 

現代において、アジア諸国に挑発的な首相が君臨しつづけることも、究極的には安倍氏が問題というより、彼を「選び続ける」国民の気質こそが問題なのです。

 

その一番の「ウィークポイント」である歴史問題にせよ、いまだに多くの日本の教科書が、この本質的な点を曖昧にし、条約の不平等性・侵略性を覆い隠しています。甚だしくは、あたかも日本が朝鮮を「近代」に導こうとしたのに「頑迷」な朝鮮側は、これを受け付けなかったのだというような説明をし、そこから一歩も認識を成長できずにいる。

 

物事の発端である雲揚号事件についても、日本が朝鮮の主権を侵害したにも関わらず、あたかも朝鮮側に非があるように説明しているものがあるが、甚だしい誤りといわなければならない。

 

このような独善的な歴史観は、国民をとんでもない誤りに導くだろうと、参考図書は危惧していますが、実際今の日韓関係日朝関係を俯瞰しても、在日コリアンに対する不遜や無知・差別的な待遇を含め、こういう自己満足オ〇ニー思考「行く先」については、もはや日本を暗黒にぶち落とす結果にしかならないと、私自身常日頃から警鐘を鳴らし続けている。

 

60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス

 

‐あの戦争で我々はものすごいものを失った‐

 

‐おバカだけど笑えない安倍政権の「閣議決定」(朝鮮総連はテロリスト集団)‐

 

‐韓国への輸出規制・あいちトリエンナーレ・日本のオワコン等々‐

 

‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐

 

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12329980224.html

 

 

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一部の才覚に富んだ日本人が、いかに先進的かつ有用な取り組みで、海外の方々との信頼を勝ち取ろうとも、多くのモノリンガルで内向きな大衆によって、日本の中長期的な国益を甚だしく棄損している。

 

こんなバカな話があるだろうか。

 

私自身、選民思想を振りまくわけでもないが、「事実として」このような状況に陥っている日本を見て絶望しているのです。

 

今の日本を見ていると、このような「世界感覚」が全くない人たちの集まりで、自分たちの見たいモノ、信じたいモノにすがり、まっとうな批判に対しては「反日」というレッテル貼りで逃げようとするお粗末さに、ただただ情けなさと呆れしか感じません。

 

 

・刹那的な国家運営は 「自国の衰退」を生み出す

 

欧米列強の外圧に対抗するために、近隣のアジア諸国に「侵略の矛先」を向け、これを踏み台にして欧米列強の仲間入りをしようとする日本側の「戦略」は、すべてブーメランになって後世の禍根自国の衰亡に繋がっているが、思想の古くは、佐藤信淵らの国防論者たちによって提唱され、幕末の吉田松陰に至っては、すこぶる明確・露骨なものとなり、彼の弟子たちを中心とする明治政府の手で、まず「征韓」「征台」から実行されていった。

 

‐江戸時代の朝鮮観その4(幕末期)‐

 

もちろん、そのルーツをたどると『国学(記紀)』を淵源とする「コンプレックス史観」に基づくのですが、こういう話が持ち上がるたびに、何度も指摘しておかなくてはなりません。

 

‐江戸時代の朝鮮観その3(優越思想と国学者の場合)‐

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その1-

 

‐韓国が天皇を「日王」と呼ぶ理由(中国と日本における文明比較の話)その2‐

 

 

・「征韓論争」の真相

 

普通、1873年『征韓論争』において西郷・板垣だけが「侵略主義」を主張し、彼らを政権から追い出した大久保・伊藤らは非征韓論派だったかのごとく理解されていますが、それは間違いです。現に、非征韓派と目されている木戸孝允が、はやくも明治政府成立直後1868年旧暦12月14日(新暦の1869年1月26日)において、以下のように主張しています。

 

速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼若し不服の時は罪を鳴らして其の土を攻撃し、大いに神州の威を伸長せんことを願う

 

(『木戸孝允日記』一)

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 160頁より

 

簡単にいうと、「日本帝国を舐め腐ってる朝鮮を問いただし、それでもゴネたらぶっ飛ばせ」です。

 

この場合、もちろん朝鮮側は何の「無礼」も行っておらず、まして鳴らすべき「罪」はどこにもありません。

 

強いて言えば、以下の文章が彼らにとって「無礼」だったのでしょう。

 

‐明治時代の朝鮮観その1(征韓論①)‐

 

「朝鮮は皇国を蔑視し、文字に不遜ありといい、以て恥辱を皇国に与う。君辱かしめらるれば臣死す。実に俱に天を戴かざるの寇(かたき)なり。必ずこれを伐たざるべからず。・・・・・その十大隊は江華府に向かい直ちに王城を攻め大将これを率う。その一は少将六大隊を率いて慶尚(キョンサン)・全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)三道より進む。その一は少将四大隊を率いて江原(カンウォン)・京畿(キョンギ)より進む。その一は少将十大隊を率いて鴨緑江(アムロッカン)を遡り、咸鏡(ハムギョン)・平安(ピョンアン)・黄海(ファンへ)の三道より進む。遠近相待ち、緩急相応じ、之を角し之を犄(き)す。必ず五旬を出ずしてその国王を虜にすべし。・・・・・一日わが三十大隊を挙げて彼の巣窟を蹂躙せば、則ち土崩瓦解せん」

 

※()は筆者註

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 16頁より

 

いやだからね、「あなた達の世界」の中では、昔から日本が「帝国」で、天皇という「皇帝」を戴く「独立国」だったと言いたいのだけど、現実の東アジア世界では僭称に過ぎず、まったく相手にされなかったわけ。

 

そういう図星を朝鮮に突かれて、醜く肥大した皇国精神のエゴと言いますか、反対するものは全員征伐しても構わないのは、現在の韓国と「断交」を叫ぶ連中とまったく変わらないし、何よりこういう『記紀』ベースにしたアジア諸国に対する蔑視思考そのものが、当地域を不安定にし、差別分断・対立を生みだす「根本原因」だってことを理解しろよ。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐

 

要は、自分たちを妄想を押し付けんなってことだ。

 

話をもどると、以上の「征韓論争」なるものは、実は国内政策においての「権力闘争」にすぎず、朝鮮侵略の是非をめぐる根本的対立ではなく、ただ「それをいつ実行するか」についての意見が分かれたに過ぎませんでした。

 

 

『征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)鈴木年基作。』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E9%9F%93%E8%AB%96

 

「征韓」の主張は、朝野に満ちており、大久保政権リアルに内外の条件を計算しながら、これを実行に移していったのでした。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・Cluttered talk blab blab blab 『60年前のアルジェリア独立戦争時の残虐行為を認めたフランス』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12404944182.html

 

 

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