幕末の海外雄躍論=アジア侵略論は、外圧による危機感から生まれた着想であって、外圧による危機感から生まれた着想であり、当時の国内情勢の下では実現の可能性は低いものでした。


ところが明治維新後になると、それは政府首脳部に取り入られ、現実性のある政策論に発展しました。


そこにあらわれたのが『征韓論』です。



征韓論をいち早く提唱したのは木戸孝允です。


彼は明治元年12月14日の日記の中で、「使節を朝鮮に遣わし、彼の無礼を問い、彼もし不服のときは、罪を鳴らして其の土を攻撃し、大いに神州の威を伸張せんことを願う」と書いています。


また明治2年正月1日、大村益次郎に送った手紙には「韓国のことは皇国の御国体相立候処を以て、今日の宇内の条理を推候訳にて、東海の光輝を生じ候は、ここに始まり候ことと思考仕候」としています。


こういう考えから、木戸は朝鮮へ使節の派遣を内閣に提案しました。その提案によって、翌3年10月に政府は朝鮮に使節を送り、国交の回復をもとめました。そのときの外務卿であった沢宣嘉(さわのぶよし)は、「韓国は上古、素尊親征の霊跡あり。列聖綏撫(れっせいすいぶ)の国にして、その国脉(こくみゃく)の消長如何(しょうちょういかん)は、わが国家安危の関する所である。況(いわん)や近来露国垂涎(すいぜん)の状(かたち)あるに於いて、わが帝国が之を匡救(きょうきゅう)するにあらざれば、その存亡未だ知るべからず。この際に当り朝使を派遣するは刻下の最大急務なり」と述べました。



使者派遣とは言いますが、その目的は朝鮮の制圧であり、当時の朝鮮の君主は大院君でいわゆる維新前の日本と同様に鎖国攘夷政策をとっていました。


そこで日本の国交回復の提案は拒否され、そのとき使節として朝鮮に行った佐田素一郎(白芽)は、帰国すると建白書を提出し、激烈な征韓論を主張しました。


その一節には、「朝鮮は皇国を蔑視し、文字に不遜ありといい、以て恥辱を皇国に与う。君辱かしめらるれば臣死す。実に俱に天を戴かざるの寇(かたき)なり。必ずこれを伐たざるべからず。・・・・・その十大隊は江華府に向かい直ちに王城を攻め大将これを率う。その一は少将六大隊を率いて慶尚(キョンサン)・全羅(チョルラ)・忠清(チュンチョン)三道より進む。その一は少将四大隊を率いて江原(カンウォン)・京畿(キョンギ)より進む。その一は少将十大隊を率いて鴨緑江(アムロッカン)を遡り、咸鏡(ハムギョン)・平安(ピョンアン)・黄海(ファンへ)の三道より進む。遠近相待ち、緩急相応じ、之を角し之を犄(き)す。必ず五旬を出ずしてその国王を虜にすべし。・・・・・一日わが三十大隊を挙げて彼の巣窟を蹂躙せば、則ち土崩瓦解せんとし、まことに乱暴極まる物言いです。



この状況を端的に言えば、それまで国学者や国粋主義的儒者のみが浸っていた『記・紀』の妄想世界を、これまた垢抜けない薩長の田舎侍たちが政権を握って、いよいよそれが現実に表出してきたと言えるでしょう。


佐田が怒り狂った言葉の一節に、「文字に不遜あり」としますが、前述のとおり『記・紀』の世界では日本が「帝国」であり、天皇が「中華皇帝」ですが、現実の東アジア世界では僭称に過ぎず、まったく相手にされないことは明白でしょう。そういう図星を突かれて、醜く肥大した皇国精神のエゴと言いますか、反対するものは全員征伐しても構わないのは、今のネトウヨとまったく変わらないでしょう。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房