このように、例外を除いて江戸時代の朝鮮観には相対立する傾向のものがありました。


しかし、幕府の友好的政策のもとでは朝鮮の優れた学問や、それを生んだ朝鮮の学者に対する尊敬の念が強かったのです。


やがて幕末になり、欧米列強の艦船が来航し、日本人が外圧におびえ危機感を持つ時代になると、朝鮮観に大きな変調があらわれました。林子平は天明五年(1785年)に『三国通覧図説』を著し、朝鮮が琉球・蝦夷とともに日本の国防に深い関係があることを述べ、朝鮮研究の緊急性を唱えました。


そこには、列強の侵略に対抗するための国防上の見地から、朝鮮を眺める意識が明白に生まれています。



これは朝鮮観の大きな転換と言えます。


以後、海防や攘夷を主張したものは、みな同様の目で朝鮮を見て、この考えは日本の防衛のためには、朝鮮その他のアジア諸国を列強に先んじて日本が取るべきだという意識を生み出しました。


佐藤信淵は『宇内混同秘策』のなかで、「世界万国の中に於(おい)て皇国より攻め取り易き土地は支那国の満州より取り易きはなし。・・・・・既に韃靼(タタール=モンゴル)を取得る上は、朝鮮も支那も次で図るべきなり」と述べ、


さらに朝鮮攻略について、「第五には松江府、第六に萩府。この二府は数多の軍船に火器・車筒等を積載し朝鮮国の東海に至り、咸鏡(ハムギョン)・江原(カンウォン)・慶尚(キョンサン)三道の諸州を攻略すべし。第七に博多府の兵は数多の軍船を出して朝鮮国の南海に至り、忠清(チュンチョン)道の諸州を襲ふべし。朝鮮既に我が松江と萩府の強兵に攻られ、東方一円に寇(かたき)に困むの上は、南方諸州は或いは空虚なる処あるべし。直に進で之(これ)を攻め、大銃・火籠の妙法を尽さば、諸域皆風を望て奔潰すべしと言っています。



吉田松陰・橋本左内・真木紫灘・平野国臣なども国防の充実とアジア進出を説く中で、朝鮮攻略を主張しました。


そしてあの有名な勝海舟はどうだったのかと、皆さまが気になるところだと思いますが、彼はヨーロッパ人に対抗するためにはアジア諸国の連合が必要であり、それには先ず朝鮮と連合せねばならぬとしましたが、もし仮に朝鮮が日本の要望を聞き入れないのなければ征伐すべきであると主張しました。


このような主張の中で注目すべき点では、朝鮮は本来日本の属国であったという考えがあり、吉田松陰は『幽囚録』の中で「朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くならしむべし」と述べ、平野国臣は『回天管見策』で「先ず三韓を討ち、更に府を任那に建て、以て再び先規を復し」と言っています。



外圧の危機の中で、古代の伝承(『古事記・日本書紀』)の復興と共に想起される、その発想法は明治以後の朝鮮観にも受け継がれていきます。



<参考資料>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房