やがて自由民権運動が発展向上し、自由党が結成されました。


これは明治14年(1881年)のことです。この運動の高揚は、自由民権派の中に分解を生み出し、アジア諸国との連帯、朝鮮との連帯を要望する意識を呼び起こしました。その意識の中にも侵略を肯定する考えが残りますが、これまでの征韓論とは違った連帯意識が芽生えたことは注目すべきものです。


自由民権左派は、日本が列強の圧力の下で苦しめられている現状を脱却するために、同じく列強の侵略下にあるアジア諸国との連帯を考えました。外圧に対する危機意識は、幕末以来の征韓論者も同様に持っておりましたし、征韓論者は朝鮮その他のアジア諸国の征服によって欧米列強に対抗しようとしました。


それとは違って、今やアジア諸国との連帯による列強への対抗が考えられました。日本をアジア被圧迫民族の一員と考え、朝鮮・中国・インドなどの被圧迫民族の苦境に共感し、連帯を呼びかけました。


「此(これ)危険の秋に方り、我邦(わがくに)の独立を鞏固(強固)にせんと欲せば、区々の小数に関係せずして宇内の大勢に着眼し、以て東洋の連衡を図らざるべからず」(近時論評二○三号)



こういう連帯意識が生まれたことは、日本人の朝鮮観・アジア観の成長の上で注目すべき現象であり、それは天賦人権論や国家平等論などの近代的意識の成長と深い関係のある意識でした。


「亜細亜洲内の邦国にして亜細亜洲の振興を謀らんには必ず先ず我国内の隆盛にすべく、我国内を隆盛にせんとすれば必ず先ずその人民の自由元気を作興せしむべきなり」「内国人民の自由権利を圧抑して亜細亜の振興を謀らんとするは根を絶て花を求むるが如し」(愛国新誌六号)などの意見をみると、国内改革、その民主化がアジア振興の前提と考えられています。


この認識自体、至極真っ当なものでありこういう民主化を目指す運動の中でアジア連帯の意識が生まれました。しかし、アジア連帯意識は十分に成長しませんでした。


連帯を主張しておきながら、連帯の具体的方法を提起できずに観念的運動に終わり、連帯意識の中にはこれと矛盾する侵略肯定の意識が含まれていました。まずアジア連帯意識は列強の侵略に対抗するための「一手段」に過ぎなかったこと。しかも侵略への対抗は、日本の国権を伸長するためのものであり、したがって国家有事の際には、他の非常手段によって取って代えられる恐れがありました。


すなわちそれは、侵略肯定に移行する可能性が多分にあったことです。



さらに連帯の主張者は日本をアジアの指導者とみる強い指導者意識をもっていました。


彼らは、清国を頑迷固陋とみなし(近時論評、明治11年1月18日)、朝鮮を「東洋中最第一の頑固国」(同、明治14年1月3日)あるいは「東海の僻偶に沈淪したる一野蛮国」(同、明治9年6月24日)と、なんとも上から目線で考えました。もっとも、朝鮮の後進性を軽侮すべきではなく、日本も十数年前までは同様であったと自戒はしています、一応「形だけ」は。(同、明治14年8月23日)


しかし同時に強い先覚者としての誇り、後進国を指導すべき使命感をもっていて、それは「我東洋に関し自ら先覚を以て任ずる者の宜しく之を誘導して共に東洋の開明を計画すべき秋にして荀も逡巡踟蹰(しゅんじゅんちちゅう=決心がつかず、ためらうこと)するの日に非るなり」(同、明治15年8月23日)という言葉を見ればわかるように、ただクーデターで政権が変わっただけで、欧米からも、事実国力で清に遥かに劣る国なのに、先進国ヅラで「オレさまこそが近代化の指導者だ!」(キリッ)とほざく始末です。


この呆れた指導者意識は、開明化の誘導という名目で、あるいは開明化と助けるという意識のもとで、内政干渉・侵略を肯定する恐れがありました。


このような、あいまいな連帯の意識は、その主張者に日本政府の朝鮮侵略政策に対する批判を怠らせ、むしろこれを支持する方向を取らせました。



彼らは江華条約を日本が朝鮮に与えた恩恵であると考え、釜山浦に侵出した日本人と朝鮮人との間に衝突が起こったときに、彼らは「甚だしい哉(かな)、朝鮮人の野蛮なるや。嚮日(きょうじつ=さきの日)」江華暴発の時に当り、我が政府はその国の未だ万国の事情に通ぜざるを諒察(りょうさつ=相手の立場・状態を察すること)し、使節を派遣し、彼是対等の条約を結び、その独立を承認し、世界に向かって朝鮮のために幾層の栄光を添えたり。我が日本の恩恵も亦渥しというべし。然るにその恩遇を忘れたるのみならず、却って(かえって=むしろ)これを疾視(しっし=憎しみをもって見ること)、恩に報いるに仇を以てするに至る。また何の心ぞや。その頑その愚、あに言うに堪えんや」(同、明治9年6月19日)としました。


あのぅ、こいつらひっぱたいていいですか?


なんという恩着せがましい偉そうな物言いでしょうね。


明らかにやったことは欧米の猿真似で、海外製の安船の砲艦外交で朝鮮に無理やり開国させて、数々の不平等条約を結んで自分たちがその市場を貪る行為を一切顧みることなく「オレさま日本帝国が、お前ら朝鮮の万年属国から解放して栄光を与えてやったのに、野蛮な民度は全く変わってないな。せっかく世界の事情に疎い未開な状況を察してあげて、『平等な条約』を結んでやったのに、なんだこのザマは?恩知らずにもほどがあるだろう」とおぞましい妄言を垂れ流し、自分たちがいかに「文明国」であることを自慢し、実際はその他のアジア諸国と変わりない状況なのに、明治時代の言論人の夜郎自大な態度には呆れと軽蔑しか浮かんできません。


結局、こいつらが江華条約を朝鮮への恩恵とみるのは、それが朝鮮を自主独立の国、日本と同じ平等の国と規定したからです。


無論、それは日本が清(中国)の冊封体制を一方的に植民地的な属国制度とみなして、朝鮮をそのような体制から自らの陣営に引き込もうとしたに過ぎず、実際はそうした冊封制度を確立した中華文明に激烈なコンプレックスを持っていて、中華文明世界のトップである『皇帝国』になりたくてしょうがなくて、手始めに朝鮮をその一部に加えようと躍起になった結果なのです。


その本質として、領事裁判権や関税免除の条項が示すように、明らかな不平等条約であり、自由民権派はもとより、明治時代の識者はみなこういう妄想や願望に取り憑かれておりました。それだから、当時としては日本も列強と間に不平等条約を結ばれていて苦い思いをしていたのにも関わらず、朝鮮に対しては不平等条約を押し付けることにまったく恥じず、その魂胆は前述にも述べたように日本がアジアでトップになるための、すなわち『皇帝国』となるための、欧米帝国主義と科学技術を使って成り上がろうとしたことに集約されます。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房