・『開化派思想』の歴史

 

 

『개화당 주요 인물(開化団主要人物)』

 

개화사상(開化思想)

 

조선 후기 형성된 자주 근대화·변혁·진보를 지향하는 정치사상.

 

<朝鮮後期に形成された自主近代化・変革・進歩を志向する政治思想>

 

※<>は筆者註

 

『한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>』より


https://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0001759

 

内外の矛盾の深まりと、民衆の反封建・反侵略闘争の激化のなか、今や朝鮮民族史の一大変革は不可避であった。

 

両班支配層の中にも、このような「開国後の現実」を自覚し、対処の道を探ろうとして、ただ旧来の因習にしがみつき、定見(主体性)もなく状況に流されている閔氏一族の執権者をはっきり批判する新たな「二つの政治思想」が登場した。

 

そのひとつが、朱子学的な価値観に立って反侵略闘争を重視する、前述の衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>であり、さらに別の思想として、封建体制自体を否定し、近代改革を実現することによって民族的危機を乗り切っていこうと目指す開化派<ケファパ>でした。

 

最近の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史家の研究によれば、金玉均<キモッキュン>らを中心とする政治党派としての開化派の形成は、1874年ないし、それ以前の時期にさかのぼるとされていますが、前提となる『開化思想』は、すでに1860~70年代には確実にある程度成熟し、普及を遂げていた。

 

やがて、金玉均らの政治活動に焦点を結んでいく「開化思想の系譜」は、ふたつの源流から発しています。その一つは、呉慶錫<オキョンソッ>劉鴻基<ユホンギ>らによって代表される、『中人』(両班と平民の間)身分のインテリたちの開化思想です。

 

彼らは主に、翻訳官や医師などを生業としていたが、その職務柄、いち早く中国経由で欧米の科学知識に触れ、さらには、その社会制度や世界情勢の認識を深めるにつれ、これらを積極的に摂取し、近代改革を遂行しなければ、欧米の外圧に対処することができないという危機意識を持つようになっていました。

 

ことは急を要するのに、彼らの「身分が低い」ため、急速に大きな政治的影響力を持つことができなかったので、彼らは、意識的に、執権者に連なるような有力な両班の子弟に接近した。

 

中でも、進取の気性(先見性)と才能に富む青年と接触し、書物を貸し与えるなど、開化思想によって啓蒙組織する活動を展開したのでした。

 

もう一つは、『実学思想』を継承し、さらに発展させようとする両班知識人の努力の影響です。

 

殊に、実学派の大学者であった朴趾源<パッチウォン>の孫にあたる、朴珪寿<パッキュス>は、当時政府部内で重きをなす人々の中では、「最も開明的な考えの持ち主」でしたが、自宅の舎廊房<サランバン>(客間)を、進歩的な青年両班たちに開放し、感化を与える機会をつくりました。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 167頁より

 

こうして、呉・劉の努力で目をひらかれ、朴のもとで研鑽を積んだ青年たちの中から、同志的親交が芽生え、ひとつの政治的グループがうまれていくのです。

 

なお、同時代には崔漢綺<チェハンギ>のように、実学の枠を一歩こえて、『変法自強<ピョンボッチャガン>』を唱えるユニークな思想家も登場しており、活発化した思想状況を背景にして、開化派の形成もうながされたと思われます。

 

 

『同』 168頁より

 

このような経緯によって形成された開化派における当初の中心人物たちは、リーダーの金玉均をはじめ、朴泳孝<パクヨンヒョ>洪英植<ホンヨンシッ>徐光範<ソグァンボム>ら、さらには金允植魚允中金弘集など、いずれも劣らぬ名門両班出身であったから、やがて政権内に進出して相当の地位につくようになった。

 

そして、下級官僚や宮女、軍人、さらにおそらく若干の商人などにも影響を与えるようになり、『忠義契<チュンウィゲ>』という名の細胞組織がつくられはじめます。

 

 

『김홍집<金弘集>』 (한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>より)

 

http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0011098

 

開化派の「宮廷内における政治活動」は、1881年、金弘集を正使とする修信使(外交使節団)が渡日し、金玉均も随行して日本を見聞して以来、いちだんと活発になった。

 

特に、壬午軍乱の収束以来、若い国王高宗に影響を与えるほどまでになりましたが、それにつれて守旧派<スグパ>である閔氏一族との「対立」も鋭くなりました。ここで開化派は、ふたつの流れ分化していきます。比較的「技術面における改革」に重きをおく、金允植および魚允中らは、むしろ閔氏勢力と妥協して、その内部で改革をはかっていこうとしたのに対し、金玉均らは「あくまで閔氏勢力と対決して権力を掌握しなければならない」と考えるようになり、壬午軍乱についても、むしろ清国に連行された李是応(大院君)に同情する見解を示しました。

 

 

・改革を求め 日本への「接近」

 

そして、金玉均の指導する開化派(急進派)は、日本の力を利用した改革を進める方向を選ぶようになる。彼の政治思想は「日本が東洋のイギリスとなるなら、朝鮮は東洋のフランスとならねばならない」(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 169頁より)という言葉にも示されるように、「西欧諸国が数代かかって成し遂げたことをわずかな期間に達成した日本」(『同』 同頁より)の明治維新に、模範を見出すことに執着していった。

 

まあ、これについては「0から1を作ること」より、「出来上がったモデルケース(近代主義)をコピーするだけ」ですから、実際は、そんなにもてはやされるべきではありません。

 

ここで『倭人文化の力』について、英語ブロガーのMichikoさんの記事を二つ掲載させていただきます。

 

沖縄、引き裂かれたアジアの仲間たち

 

アフリカで祝う「中秋節」

 

話をもどすと、金玉均の思想は、両班らしい統治者的な「国家への責任感」に発する、彼なりの問題提起で、軍事的にも政治・経済含めた富強な資本主義国家を、「上からの制度改革」によって成し遂げることで、まさに明治維新のメソッドが、彼の意識にマッチしたのです。

 

しかも外圧が急迫している状況のもと、急速にそれを達成するためには、むしろ積極的に日本に接近し利用しようとする「危険な道」を選び、まず福沢諭吉らと交わって、彼のもとに金玉均の影響下にある青年たちを留学させ、さらに福沢らを通じて、明治政府内部の井上馨(いのうえかおる)らに接近していった。

 

 

・互いに利用し合う関係 きたる『甲申政変』

 

金玉均はまず、日本政府からの借款で財政の「近代化」を実行することにより、政権内の主導権を取ろうとした。しかし、当時の日本政府側には、もともと巨額の借款を彼に供与する気もなければ、そういう財政余力もなく、ただ金玉均らを「親日派」に転化させて利用するために、無責任な空約束をしたに過ぎませんでした。

 

結果、この計画は挫折した。

 

このことを反対派に批判される中で、1884年に入り、金玉均らは「武力による政権奪取」を計画するにいたります。このような『クーデター計画』は、彼らによって独自に進められていたが、漢城(現ソウル)駐屯の清国軍が閔氏側に立って動くことを考慮に入れると、これに対する軍事力としては、日本軍に期待しないわけにはいきませんでした。

 

計画は、1884年12月4日郵政局落成祝賀式を機会に決行され、金玉均らは高宗国王を擁して、ただちに新政府を構成しました。

 

 

・三日天下の政権 狡猾でしたたかな日本政府

 

そして翌朝、新政府の政網を公布するとともに、次々と新制度を立案していこうとしました。ところが、閔氏側国王にひそかに連絡をつけることに成功したのを機に、袁世凱<ウィアンスカイ>率いる優勢な清国軍が襲い掛かり、一方、駐屯日本軍は新政府支援に動くことはせず政権はわずか3日で崩壊してしまった。

 

 

『袁世凱』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%84%EC%95%88%EC%8A%A4%EC%B9%B4%EC%9D%B4

 

金玉均・朴泳孝はかろうじて日本に亡命し、最後まで高宗国王と行動をともにした洪英植らは殺害された。

 

 

『홍영식<洪英植>』 (同より)


https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%80

 

この間、日本公使竹添進一郎らの動きはどうかというと、政変がおきる1884年9月段階で『清仏戦争』が起きると、以下のような策略をめぐらしました。

 

 

『竹添進一郎』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E6%B7%BB%E9%80%B2%E4%B8%80%E9%83%8E

 

清国に余力がない今が、朝鮮に介入する好機

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 170頁より

 

このように、クーデターを大いに支援するというより「利用する姿勢」を示したいたが、実際に決行された12月段階には、すでに清仏戦争が一応収束しており、日本政府は「情勢不利」とみて介入しないことに政策変更してしまっていた。

 

もちろん、日本軍の介入があったら良かったなどと言えないにしろ、当時案を通じて、結局日本側は金玉均らを心から支援する姿勢など微塵もなく、ご都合主義的に利用しようとする意図があっただけだということが物語っています。

 

状況不利とみると、日本政府はすばやく無関係を装い、逆に臆面もなく公使館の損害などに対する朝鮮政府の賠償を強要して『漢城条約』を結ばせ、清国との間には、一時的妥協をはかるための『天津条約』を締結した。

 

そして一方、亡命してきた金玉均らについては、これを厄介者扱いして、北海道から小笠原へと僻地に追いやった。また、福沢諭吉らの態度も、政府のそれと何ら変わらなかった。

 

 

『明治24年(1891年)頃の肖像』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%BE%A4%E8%AB%AD%E5%90%89

 

彼も、自らの責任を棚に上げて、朝鮮の開化派に言いたい放題の悪口を浴びせるようになり、翌1885年には『脱亜論』を仕上げ、後々と露骨極まりない侵略主義を公然と煽り立てるようになる。

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合③) ‐

 

‐明治時代の朝鮮観その3(脱亜論者の場合④)‐

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 171頁より

 

福沢にとっても結局、金玉均らは「日本の国権を伸ばすための利用対象」に過ぎなかった。

 

 

・金玉均の総括 その最期

 

金玉均が『甲申政変<カプシンチョンビョン>』で何を目指していたのかは、のちに亡命中に執筆された『甲申日録』の中で、記憶にもとづき記されている『略録一四ヵ条』によって、その内容をおよそ知ることができる。

 

「門閥の廃止」「地税制度の改革」をはじめとする「官制・財政・軍制などの改革」に関するものからなっており、まず制度面の近代化をはかることを通じて、上から社会改革をもたらしていこうとしたことがわかります。

 

しかし、このような朝鮮史の発展方向に沿った改革を、まさに金玉均らは、朝鮮の民衆の力量に依拠して進めていくことを構想できなかった。彼らは、農民たちは「無知で遅れていて期待できない」と見ており、それだから「日本の力」に期待したのでした。

 

が実際、民衆意識は大きく盛り上がりはじめていた。もちろん開化派の軌跡も、後のブルジョア民族主義運動に引き継がれていく重要な契機となったのは確かです。

 

 

『김옥균 암살 당시 일본의 어느 신문사에 실린 기사와 삽화』

 

<金玉均暗殺当時 日本の某新聞社に掲載された記事と挿絵>

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%80

 

1894年3月閔氏政権が派遣した洪鍾宇<ホンジョンウ>によって、金玉均は上海に誘い出された末に暗殺され、悲劇の生涯を閉じた。

 

 

『효수되어 한성부 저잣거리에 내걸린 김옥균의 수급』

 

<斬首され漢城部市街に晒された金玉均>

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B0%91%EC%8B%A0%EC%A0%95%EB%B3%80

 

遺体は漢城(現ソウル)に連れられ、『大逆不道』の幟を下に晒された。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・한국민족문화대백과사전<韓国民族文化大百科事典>『개화사상(開化思想)』記事


https://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Item/E0001759

 

 

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