こういう脱亜入欧の立場から、日本の大陸政策の積極的推進が主張されました。


もっとも福沢の初期の主張の中には、「小国ナショナリズム」というべき意識があり、後進の小国も大国と同様に尊敬すべしといい、また江華島事件にさいしては過激民権派の出兵論に反対しておりました。


ところが日本の朝鮮侵略が現実に進行し始めたのちには、積極的干渉を主張し、特に『壬午事変(甲後農民戦争)』(明治15年)以後猛烈な干渉論を唱え始めます。当時、自由民権派が干渉に反対した中で、福沢の主宰する『時事新報』は武力干渉を主張し、民権派からは「官憲新聞の軍門に降参したり」と言われました。


まあその民権派にせよ、結局は「同じ穴のムジナ」であり、今は侵略の期ではないだけで反対したことを忘れてはなりません。時期になれば、彼らも自由党末期のように激烈な侵略主義者の本性を晒します。


そんなこんなで、福沢は自身の主宰する新聞の中で、朝鮮の支配圏をもぎ取るためには清との戦争も辞さないという、きわめて夜郎自大かつ幼稚な侵略論を展開し、未だ国力の貧弱な明治日本政府せよ、今清と戦争しては確実に敗北する上に、ひいては当時の国際関係も鑑みた上で時事新報は社説の掲載を禁止され、さらに発刊停止で脅かされるほどでした。


このように猛烈な干渉論を唱える中で、前述の『脱亜論』が展開されたのです。



ゆえに、上述の福沢の思考を探ればわかるように、「脱亜論」の性格は明らかです。


それに対抗する論として、福沢は朝鮮開化派である金玉均を援助したではないかという話も出てきますが、金玉均との具体的なつながりは、壬午事変(甲後農民戦争)を経て金玉均が上海で暗殺されるまで持続しました。これは一見すると、朝鮮の独立・開花をねがい、開化派との連帯を福沢が考えたように見えます。


しかし事の真相を探ると、そうではない結果が見えてきます。


明治18年、『時事新報』に出た「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」という論文では、朝鮮政府は人民の生命や財産を守れないから、人民にとっては朝鮮がロシアやイギリスなどの外国に占領されたほうがましであり「他国政府に亡ぼされるときは、亡国の民にして甚だ楽まずと雖(いえど)も、前途に望(のぞみ)なき苦界に沈没して終身内外の恥辱中に死せんよりも、寧(むしろ)強大文明国の保護を被り、せめて生命と私有とのみにても安全にするは不幸中の幸ならん」と言いました。


はあ・・・、この爺さん、周りから持ち上げられている割にはバカですね(呆)


一体彼はアメリカまで行って、「世界」の何を見てきたのでしょうか。


きっと福沢爺さんの頭の中では「きらきら光るユートピアのアメリカ・欧米」像が終始頭の中でグルグル回転して、俗にネトウヨのいう「お花畑」状態だったのかもしれません。



無論、19世紀における世界の帝国主義国家の実像を見れば明らかなように、大英帝国のインドを始めとする植民地政策における蛮行は言わずもがな、ロシアに至っては皇帝一族と一部の貴族を除いて「国民の8割が農奴」である、極めて非人道的な「前時代の帝国」であり、その国家の淵源はモンゴルを経て古くは大唐帝国にまでさかのぼる『中央ユーラシア型国家』です。


後者に至っては、国民の生活も命も省みないような制度を維持する帝国を、福沢は「強大文明国」などと持ち上げ、それに支配されれば「個々人の生命」と「私有財産制」が安全になるなどと呆れた無知っぷりを晒してますが、帝政ロシアに私有財産も個人の人権も全く存在しない、ガチガチの皇帝独裁の国です。


しかし、こんな現実を無視した「欧米ユートピア」の妄想世界に浸る人間が「明治時代の識者」とはね。。。


完全に終わってますね、明治日本の「学識」(笑)とやらは。



おまけに福沢は、自身の新聞で「近代化しない朝鮮」に対して「前途に望(のぞみ)なき苦界に沈没して終身内外の恥辱中に死せん」と述べ、「近代化ければ欧米に嘲笑され、恥の上塗りで殺さてしまう」という、なにやらよくわからないレベルまでの強迫観念を持ち、それによって国家の存亡が危機に瀕するとすればいいだけなのに、心の底まで「欧米さま」にひれ伏す事実上の『家畜人ヤプー』と同レベルの存在でしょう。


このように、福沢は朝鮮の自主的開花には期待を持たず、「強大文明国」(欧米帝国主義国家)の占領・保護をひたすら説き、それは文明の名による侵略の肯定であり、その基礎には、朝鮮は自ら文明化しえないという考えがあります。


これでは開化派への援助も、結局は日本の朝鮮支配の手段とならざるえないでしょう。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房