前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その12(荒れ狂う帝国主義 清敗北後の中国分割と朝鮮)‐

 

 

・日本による朝鮮王妃惨殺事件

 

을미사변(乙未事變)은 1895년 10월 8일(음력 8월 20일) 경복궁(景福宮)에서 명성황후 민씨가 조선 주재 일본 공사 미우라 고로(三浦梧樓)의 지휘 아래 일본군 한성 수비대 미야모토 다케타로(宮本竹太郞) 등에게 암살된 사건이다.

 

乙未事変<ウㇽミサビョン>は、1895年10月8日(旧暦8月20日) 景福宮にて明成皇后の閔氏が、朝鮮駐在日本公使の三浦梧楼の指揮下にある日本軍漢城(現ソウル)守備隊、宮本竹太郎たちに暗殺された事件。

 

※翻訳は筆者による

 

『韓国語Wiki百科』記事より

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EB%AF%B8%EC%82%AC%EB%B3%80

 

 

『明成皇后(閔妃)殺害事件関連者』 

 

※当時の伊藤博文総理をはじめ、野村内相、陸奥<むつ>外相、芳川<よしかわ>司法相、井上前駐韓<朝鮮>公使、三浦駐韓<同>公使(陸軍中将出身)

 

http://m.blog.daum.net/tntv/416?np_nil_b=-2

 

 

『明成皇后(閔妃)肖像画』 (ナムウィキより)

 

https://namu.wiki/w/%EB%AA%85%EC%84%B1%ED%99%A9%ED%9B%84

 

日清戦争中に日本が行なった露骨な内政干渉は、朝鮮の近代化にこの上ない困難をもたらした。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その10(ついに日清戦争が勃発する)‐

 

それだけに、日本に対する朝鮮民衆の憤怒は、ますます高まってゆく。朝鮮政府内部でも、「日本からの自立」を求める動きが活発化します。さらに、1895年の日清講和条約(下関条約)に対するロシアを中心とした「三国干渉」は、戦後の朝鮮中央政界にも微妙な影響を与え、いわゆる「親露派官僚の活動」を促進させた。

 

こうした事情は、日本の侵略主義者たちに「大きな不安」を抱かせ、朝鮮を侵略して、そこに政治的・軍事的基盤を築き上げるという、彼らの「数十年来の素志も一朝水泡に帰」(山県有朋の手紙)すのではないかと嘆かせた。

 

そこで、新たに赴任した日本公使・三浦梧楼が引き起こしたのが、「明成皇后(閔妃)殺害事件」です。

 

 

『三浦梧楼』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%A7%E6%A5%BC

 

西南戦争以後、陸軍中将を務めた三浦は、日本の守備隊(漢城駐屯の日本軍)や、宮本竹太郎ら大陸浪人(壮士くずれのテロリスト)たちをつかって、朝鮮国王の妃閔氏暗殺を企て、再び李是応(大院君)を担ぎ出して一挙に「親日政権」をつくり上げようとしました。

 

※大陸浪人の前身 『天佑侠』について

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その11(日本人の「アジア嫌悪のルーツ」を探る)‐

 

 

・血みどろの景福宮 その日 何が起きたのか

 

1895年10月7日夜から8日の早朝にかけ、彼らは朝鮮の王宮に押し入り、侍衛隊長や宮内大臣らを殺害。さらに王妃の寝室に侵入し、閔氏を殺めたのち、遺体を凌辱(死姦)し、証拠隠滅のために焼き払ったという。

 

ハッキリ言って、人間のすることではない。

 

考えてみていただきたい。

 

どこかの外国勢力が、日本の宮城に押し入り、皇后を殺し、その遺体を辱めて燃やすようなことがあったら、とんでもないことになるだろう。

 

 

프랑스 주간지 『르 주르날 일뤼스트레』 표지기사. <フランス週刊誌 『ル・ジャーナル・リュストレール』表紙記事> (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EB%AF%B8%EC%82%AC%EB%B3%80

 

三浦らは、この狂気に満ちた蛮行を、あたかも「朝鮮軍隊内部の衝突」から起こった事件のように見せかけた。また、事件の真相が発覚して国際問題化した後も、不平等条約で得た領事裁判権に守られ、暗殺に関わった犯罪者たちは、翌1896年1月、広島での軍法会議でも、地方裁判所でも「証拠不十分」で全員免訴とされた。

 

実にしらじらしく、こうなることは「最初から予定通り」だったのは、誰が見てもわかりきったことだろう。

 

こうして、確実に「後世へ残す禍根」を、当時の日本の為政者たちは積み上げていった。

 

一方、日本によって再びかつぎだされた李是応(大院君)によって、金弘集内閣は改造され、この内閣は事件の真相を発表することもできず、李周会<イジュフェ>らの朝鮮人を、この事件の下手人に仕立て上げ処刑した。

 

その上、1895年11月、当内閣によって『断髪令』(日本における『散髪脱刀令』と同様のもの)が強行され、民衆の憤怒はますます高まっていく。

 

 

・「売国政権」を糾弾する義兵闘争<ウィピョントゥジェン>

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 

 

度重なる民族の危機、そして国家の無策の前に、彼らの怒りはついに爆発した。

 

明成皇后(閔妃)事件直後、忠正道の報恩<ポウン>などで、『挙義討賊』を呼びかける地方儒生らの活動がはじまっていましたが、断髪令強行の後、義兵闘争は大衆的基盤をもって拡大していきます。

 

 

『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93

 

1896年1月下旬江原道春川<チュンチョン>で蜂起した義兵部隊は、同地の観察使(地方長官)をおそった。のち、政府軍の攻撃をうけて一時後退したが、やがて再結集し、一部は首都漢城(現ソウル)に迫り他の一部は、東海(日本海)沿岸に進出して、その活動範囲を拡大しました。

 

同じころ、京畿道砥平<チピョン>李春永<イチュニョン>・安承禹<アンスンウ>に率いられる義兵部隊が、江原道原州<ウォンジュ>から忠州<チュンジュ>を経て、堤川<チェチョン>に進出し400名の砲手を率いた部隊や、慶尚道で蜂起した部隊とも合流し、朝鮮儒林の重鎮・柳麟錫<ユインソッ>を総大将とする大部隊に成長した。

 

この義兵部隊は、忠清・慶尚・江原の三道が境を接する一帯でとくに活躍した。全羅道でも義兵の蜂起があるなど、朝鮮各道で闘争が続いた。

 

彼らの主力は、農民をはじめとする下層大衆です。義兵とは、本来このような「国家の危急にさいして、国家の指令を待たずに、自発的に起ちあがる人民の義勇軍」(姜在彥 『朝鮮近代史研究』日本評論社)を意味していた。

 

決起した義兵は、各地の観察使や郡守を断罪し、その支配機構を麻痺させるとともに、日本の侵略にも大きな反撃を加えました。

 

「韓国上下ノ人身凡テ帝国ニ背離スルト同時ニ所謂日本派ナルモノノ勢力モ全ク地ヲ掃フテ空シキ有様」

 

『日本外交文書』 三一巻二冊

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188~189頁より

 

このようになったと、当時の日本公使を嘆かせた。

 

 

『同』 189頁より

 

 

・初期義兵闘争における「弱点」

 

しかし、この義兵の指導は、衛正斥邪論者である地方儒生に委ねられていた。

 

※衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>について

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐

 

そこに、このたたかいの「弱さ」がありました。

 

儒生の義兵将義兵大衆「あいだ」には、階級的な矛盾が存在しており、それが表面化して、部隊が内部から崩壊することもしばしば。

 

さらに、日本の勢力が一時後退し、金弘集内閣が崩壊して断髪令が中止されるや、たちまち部隊を解散していったところに、「この時期」における義兵闘争の限界が、明確にあらわれている。

 

甲午農民反乱後、ひきつづき侵略に反対し、朝鮮の近代化を求めてたちあがった大衆は、その課題を果たすためには、「さらなる前進」が必要不可欠でした。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

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