前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その9(日本で巷にいわれる『東学党の乱』について)‐

 

 

・奇襲によってはじめられた「日清戦争」

 

 

『▲ 평양에서 청군을 공격하는 일본군을 그린 그림<ピョンヤンにて清軍を攻撃する日本軍を描いた絵>』 (大巡會報동학농민운동<東学農民運動> 2』より) 

 

http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=1

 

朝鮮に対する武力干渉が、「日清両国の戦争」へと広げられたのは、1894年7月25日、日本軍による「奇襲攻撃」が発端でした。

 

このような宣戦布告もない侵略行為が、これ以後日本軍の「常套手段」となります。

 

 

『충남 성환에서 청군을 공격하기 위해 도열한 일본군의 모습<忠南・成歓から清軍を攻撃するために隊伍を組む日本軍>』 (『同』より)

 

http://webzine.daesoon.org/m/view.asp?webzine=44&menu_no=647&bno=1015&page=1

 

同年7月29日には、牙山<アサン>・成歓<ソンファン>清国派遣軍が敗退した。

 

 

『両軍の進撃経路』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89

 

増派された清国軍に、9月16日の平壌<ピョンヤン>戦闘で圧勝した日本軍は、鴨緑江<アムロッカン>を越え清国内へ侵入。さらに同月17日には、『黄海開戦』清国北洋艦隊が壊滅的打撃を被って退けられた。

 

 

『1894년 황해 해전, 판화<1894年 黄海開戦版画>』(清日戦争 韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%B2%AD%EC%9D%BC_%EC%A0%84%EC%9F%81

 

この段階で、すでに日清戦争の大勢は決してしまいます。

 

 

・清国敗戦の原因 瓦解する「旧式帝国」

 

 

『パンチの風刺画。小国の日本が、大国の清を破る様子を描いている。』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%B8%85%E6%88%A6%E4%BA%89

 

人口・国力比からして、本来、清が日本に負ける可能性は低かったのですが、当時ヨーロッパから購入した最新鋭の軍艦を取りそろえ、東洋最強とされた『北洋艦隊』にしろ、司令官である李鴻章をはじめ、すでに帝国が瓦解し軍閥化の流れに移行しつつあった清において、それぞれの指揮官が自らの権力基盤としての「軍事力」を温存するため、決戦を避け、退却ばかりに固執し、最高権力者の西太后に至っては、日本との戦争中だというのに「自らの還暦記念」のために、『頤和園』(いわえん)改修工事に、貴重な戦費を費やす始末でした

 

国家の大局よりも、自分たちの「権力維持」のみ執着する先に何があるかについては、歴史が証明するによろしく、現在の安倍政権による「売国政策」に一脈通ずるものがあると、個人的には思います。

 

それはさておき、後の日露戦争でも触れると思いますが、も含めて、いずれも19世紀を転機として、歴史を動かし続けてきた、これら異民族の「征服王朝」である『ユーラシア型国家』(雑多な民族を内包する旧式帝国)の終焉が訪れたのでした。

 

これと対極となるのが、ポルトガルスペインをはじめ、俗に『大航海時代』において力を蓄え、ゆく国民国家をつくりあげていったイギリスやフランスなど、『近世・近代帝国』が位置付けられます。

 

 

『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 19頁より

 

「モンゴル帝国の衣鉢」を継ぐこれらの国々、その淵源は、同シリーズにおける森安孝夫教授『シルクロードと唐帝国』(306~310頁)『中央ユーラシア型国家』(征服王朝)にあります。

 

帝国が消滅するとき

 

ひるがえって。一九二〇年のいくらか前、そのすこしく後、ユーラシアに存した幾つかの帝国があいついで消えうせた。世界史上、まれに見る帝国消滅のときであった。

 

(中略)

 

目をアジア東方に転じると、第一次大戦にやや先立つ一九一一年、すなわち辛亥の歳に革命がおこり、翌年にいいわゆる大清帝国が崩壊した。正式には満州語で「ダイチン・グルン」、それが漢字に訳して「大清国」。清朝というのは、俗称・通称である。このユーラシア型の帝国は、三〇〇年におよぶ拡大と安定、そして揺らぎと衰えの歴史をもつ。

 

マンチュリア(現在の中華人民共和国の東北三省)の山野の片隅、ジュシェン<女真>族を核とするごくささやかな連合体に始まるこの国家は、長城の南北にまたがって領域を次第にひろげ、中期から後期の乾隆帝の治世にいたって一〇〇年来の宿敵ジューン・ガル遊牧王国<西洋式の銃火器や大砲を装備した騎馬民族>をほろぼし、モンゴル高原、パミール、ティベットをつつむ大版図を実現した。一七五五年から五八年のことである。ダイチン・グルンにとって、文字どおりの多種族による巨大国家としての歳月は、後半の一五〇年あまりということになる。

 

ところが、この巨大空間が、「中華」<漢字文化圏の拡大・官僚の文書行政域で古代周王朝を中心とする「天下」周辺を差す>なるものに固有の伝統的な領域・枠組みであるとする考え方が生まれ、清末の動乱期から、さらに民国をはじめにかけての議論のなかで、いっそう昂まりゆく。

 

(中略)

 

そこに、古き時代からの「漢土」なるものと、ダイチン・グルン皇帝個人によってつなぎとめられた多元の帝国的世界との混濁・錯覚・誤解があったといわざるをえない。漢族ナショナリズムと巨大版図との埋めがたいズレを、孫文は「中華民族」なる造語をこしらえて乗りこえようとしたが、これはいかにも無理だった。

 

※<>は筆者註

 

『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社 18~21頁より

 

ベネティクト・アンダーソン(『想像の共同体』)よろしく、民族自体「近代国家の産物」であることは認識していますが、事実、長い歴史とフィールドワークを通じて、とりわけ中国の人々の意識を「すべて否定すること」を私は望みません。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その1(諸悪の根源を正し、北東アジア平和に向けて)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その6(壬午の軍人反乱による日清介入および済物浦条約)‐

 

上述の「武力を中心」とした騎馬民族と別に、中国文明は、浩瀚な儒教主義にもとづき、欧米国家にはない「大国と小国の共存」と、それに関わる安全保障を長年実現してきた歴史があり、続けて拙ブログに大いな影響を与えた英語ブロガーMichikoさんによる、絶えまない中国の人々との交流が、自分自身の認識を語る上で、諸々の「実感」としてあるのだろう。

 

スウェーデンの中国人差別と、毅然とした中国大使館の対応

 

US force is a menace to the entire world

 

USA IS USING JAPAN AGAINST ALL OF ASIA

 

Rest in peace-the Japanese men died young

 

ここに書かれていることを読んでも目から鱗だし、もちろん「上からの知識」も大切なのだろうけども、それだけでは頭でっかちになってしまう。大事なことは、『プラスアルファ』として、多くの外国人たちとの「質疑応答」が、何より現実を推し量る貴重な経験となりえるのです。

 

‐韓国メディアの朝鮮学校特集 その6(高校無償化『九州裁判』の行方)‐

 

よくMichikoさんとのお話で、中国人はどんなにディスられバカにされようとも「決して揺るがない」とされます。最近中国の方を、日本でよく拝見するようになりましたが、堂々と中国語を話すし、先祖や家族を大切にし、民族のルーツを忘れない意識はものすごい。

 

これは本当に儒教の良いところだし、その懐の深さしかり、中国がありとあらゆる面で成長しつづける原動力になっているのだろうと、私自身は思います。

 

 

・戦争の「本質」

 

話を朝鮮史にもどすと、この戦いで、後の北東アジアの政局「多大な影響」をもたらすことになりました。

 

日清戦争は、とくに日本側において、その侵略的野望を実現するため「朝鮮干渉戦争」であり、その勝利は明確な「足がかり」となった。

 

それは、甲午農民戦争(東学農民運動)における、農民軍が目指したものとは正反対であり、「戦勝国」側である日本の民衆ふくめ、東アジアの民衆が封建支配を打ち倒し、帝国主義に勝利するための条件を「ずっと後方へ押しやってしまった」のです。

 

軍事力によって、朝鮮の農民軍を敗北させた明治天皇制政権のとった行動は、この地を本格的な「帝国主義領土争奪戦の舞台」にしていきました。

 

 

・度重なる内政干渉 日本が朝鮮に突きつけた「内政改革要求」

 

 

『「朝鮮初の近代憲法」とされる洪範14条』(イラストはチョン・ソヨンさん Chosun Mediaより)

 

※訳文は筆者註 憲法の「主な内容」は、甲午改革の精神に則り、科挙制度の廃止と政治体制の変化、身分制度の廃止など

 

http://newsteacher.chosun.com/site/data/html_dir/2018/07/17/2018071700027.html

 

1 清国に依存する概念を断ち切り、自主独立の基礎を確固に建設する 


2 王室典範を制定し、王位の継承並びに王族と外戚の名分と意義を示す 


3 大君主は正殿にて国政を執り、政務は時原任大臣と親しく誠実に議論して裁決し、王后・妃嬪・王族・外戚が関与することを認めない 


4 王室事務と国政事務は、須く分離し、相互に混合しない 


5 議政府及び各衙門の職務権限を明確に制定する 


6 人民への課税はすべて法令の定めるところに従い、みだりに名目を加え、むやみに徴収することを禁じる 


7 租税の課徴及び経費の支出は、すべて度支衙門が管轄する 


8 王室費は率先して節減し、各衙門と地方官の模範とする 


9 王室費及び各衙門の費用は、あらかじめ年間予算を作成し、財政基盤を確立する 


10 地方官制を急遽改定し、地方官吏の職権を制限する 


11 全国の聡明な青年を広く外国に派遣することにより、外国の学術と技芸を伝習させる 


12 将官を教育し、徴兵法を施行して、軍制の基礎を確定する 


13 民法と刑法を厳明に制定し、まさに監禁したり懲罰することを禁じ、人民の生命と財産を保全する 


14 人材を採用するのに門閥や地縁に拘らず、士を求め朝野に遍及することにより、人材登用を広く均等に行う

 

『洪範14条』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%AA%E7%AF%8414%E6%9D%A1

 

上述の「朝鮮初の近代的憲法」と呼ばれる『洪範14条』は、主に金弘集『甲午改革』を名分としている。

 

これに先立ち、日本軍が朝鮮上陸を敢行して間もなく、帝国政府は朝鮮に対して「内政改革要求」というものを提示した。無論、朝鮮の封建社会自体は、誰の目から見ても根本的な改革をしなければいけない状態であったのは確かでしたが、「そういう事態」を見て取った日本が、これ見よがしに「内政改革」に付け込んできたのは分かりきったことでした。

 

改革のスローガンを横取りし、さらに侵略と開戦の口実として利用しながら「朝鮮の如き国柄が果たして善く満足なる改革を為し遂ぐべきや否やを疑へり」(陸奥宗光『蹇蹇録』)と、あくまで朝鮮を獲得するにおいての「外交上の問題」として考えなかった内容や、軍事的威圧によって屈服させようとした形式からして、このような「改革案」が、反動的な封建政府にさえ受け入られる性格のものではなかった。

 

朝鮮から要求を「拒否」されると、既定方針どおり、帝国側は「軍事クーデター」を断行し、李是応(大院君)を担ぎ出そうと失敗した末、開化派の流れをくむ金弘集を中心とする政権を作った。

 

この金弘集によってなされた改革が、『甲午改革』と呼ばれるものです。

 

これには欺瞞的な日本政府の「要求」が容られているかに見える。しかし、改革の具体的内容については、開化派官僚たちが「もともと構想してきたもの」であり、東学農民反乱をたたかった民衆の要求を色濃く反映したものでした。

 

第一に、「改革」は封建社会の機構の解体を方向づけるものであった。官吏任用法の改善(科挙制度の廃止)、官吏の不正行為に対する統制の強化など封建官僚機構にメスが入れられ、さらに破綻した封建経済を新しく組織化することがめざされた。

 

(1)各官衙<かんが・官庁および役所>に分掌されていた国家財政の度支衙門への一元化

 

(2)貨幣制度の整備と度量衡の統一

 

(3)租税の一律金納化などの一連の措置

 

(中略)

 

第二に、この「改革」は、保健的な身分制度を大幅に撤廃しようとするものであった。

 

(1)両班、良人のあいだの身分差の撤廃

 

(2)公使奴婢法の廃止による奴婢身分の制度的解放

 

(3)賤民層の解放

 

(4)女性再婚の自由の保障

 

(5)一族まで罪の及ぶ「罪人縁坐法」の廃止(人格の独立化)

 

※<>は筆者註

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 180頁より

 

しかし、このような「上」からの急激な「改革」は、それを享受すべき民衆の農業や商工業における「生産面での保護と改革」がなおざりにされた。

 

そのため、大きな歪(ひずみ)を朝鮮社会に生み出し、資本のために多くの封建的な制約が取り除かれたが、それはあくまで「日本資本のため」であり、朝鮮ではすでに、経済的のみならず、軍事的や政治的にも「日本の支配」に覆われようとしていました。

 

終局的に、民衆の目には、この「改革」の近代的側面も侵略の表現としか映りようがありませんでした。

 

彼らは、侵略と並行する「近代化」を否定し、これと対決する道を選んでいった。結果、大衆的支持を取り付けられず、真の改革を阻む侵略者の圧力や、閔妃一族の流れをくむ守旧的な大地主官僚の封建的反動もあって、この「改革」事業は効を奏さず、中途で挫折してしまいます。

 

いよいよ、朝鮮植民地化の危機「確定ルート」として進行していく。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』 森安孝夫 講談社

 

・『興亡の世界史09 モンゴル帝国と長いその後』 杉山正明 講談社

 

・Cluttered talk blab blab blab 『スウェーデンの中国人差別と、毅然とした中国大使館の対応』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12408173225.html

 

・同 『US force is a menace to the entire world』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12271343002.html

 

・同 『Rest in peace-the Japanese men died young』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11986920751.html

 

・同 『USA IS USING JAPAN AGAINST ALL OF ASIA』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-12063122884.html

 

 

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