前回の記事
‐近くて遠い国 朝鮮 本編7(李氏朝鮮→大韓帝国→日韓併合)‐
・日本の朝鮮統治(1910~1945) はじまる植民地政策
「小見川、加藤、小西(豊臣秀吉の朝鮮侵略時における武将)が世にあらば、今宵の月を如何に見らむ」
「大閻を地下より起し見せばやな、高麗やま高く登る日の丸」
(朝鮮併合条約調印が終わった夜に、宴の中で詠まれた、統監寺内正武と、宴に侍していた小松緑との唱和)
『明治史実、外交秘録』(1927)
※画像出典は『Wikipedia』および『無料で使えるEPSフリー素材集』より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8
『韓国併合ニ関スル条約』 (Wikiより)
「韓国併合ニ関スル条約」により、「韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス」(第一条)ることになった。
日本の朝鮮統治は徹底した「武断政策」にはじまった。朝鮮総督には陸海軍の現役の大将が任命されて朝鮮における行政、立法、司法、軍事を統括した。警務総長には朝鮮駐屯軍憲兵司令官が兼任し、各道警察部長はその道の憲兵隊長が兼任した。いっさいの政治結社、大衆団体の結成が禁止され、日本に反抗する朝鮮人は片っぱしから逮捕投獄された。朝鮮人に対する刑罰は中世的な笞刑(ちけい=むち打ち)を併用し、判任官以上の官吏ばかりか小学校の日本人教員まで帯剣した。
その一方で、日本は朝鮮全域にわたって「土地調査事業」を実施した。近代的な土地所有制度の確立という理由で「併合」直前の一九一〇年三月からはじまった「調査事業」は一九一八年一〇月までつづいたが、この間、耕作者はいても公有地のほか所有権者のはっきりしない土地や、期限までに申告をしなかった農民の土地は没収され、日本人や日本の国策会社東洋拓殖の所有に移された。
※()は筆者註釈
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 49~50頁より
岡田三郎助筆『寺内正毅肖像画』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85
日韓併合後、朝鮮総督府がおかれ、初代総督には「併合」条約の調印を指揮した陸軍大将寺内正毅(1852~1919)が就任した。
総督は、陸海軍大将の中から選ばれ、天皇に直属し、朝鮮に駐留する日本軍(朝鮮軍)を指揮し、朝鮮の内政全般にわたって絶大な権限を持っていました。
この軍人総督のもとで、憲兵と警察を一体化した治安機構である憲兵警察制度が完成され、それは朝鮮に駐留する日本軍憲兵隊の司令官が警察総長を兼ね、各道に配置された憲兵隊の隊長が警察部長、将校が警視、下士官が警部を兼ねるというシステムで、「併合」前から義兵闘争など、朝鮮民衆の抗日運動を抑圧するために、朝鮮駐剳(ちゅうさつ=駐在)憲兵司令官秋石元二郎によってつくられたものでした。
『明石元二郎』 (同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%83%E4%BA%8C%E9%83%8E
1624箇所、1万6300人の憲兵や巡査が朝鮮全土に分散配置され、憲兵は普通警察事務のほかに「諜報ノ蒐集(収集)」「暴徒ノ討伐」から「日本語ノ普及」「殖林農事ノ改良」「副業ノ奨励」「法令ノ普及」「納税義務ノ諭示(ゆし=口頭や文章で示すこと)」など、大衆の生活の隅々にまで、文字通り軍事警察の支配の網の目を張り巡らせた。
この憲兵警察のほかに、一ないし二個師団の日本陸軍が常駐し、海軍二個分遣隊が朝鮮に送り込まれていました。
このような剥き出しの暴力的支配を基礎に、「併合前」からの治安立法に加えて新たに「集会取締令」(1910年8月25日)が出され、朝鮮民衆の言論・出版・集会・結社などの権利は、ことごとく奪われた。大韓協会や西北学会などの民族運動団体は無論のこと、日本が作り利用した御用団体であった一進会までも含め、10余の結社が併合直後ただちに解散させられ、新聞や雑誌は相次いで発禁処分、廃刊を余儀なくされました。
その上で、『京城日報』や『朝鮮公論』などの日本人経営の御用新聞雑誌だけが発行を許可された。
このような日本の支配に、少しでも抵抗しようものなら『朝鮮笞刑令』(1912年3月)をはじめとする野蛮で過酷な処刑が待ち構えていました。
たとえば、日本の強制する「陸地綿(アメリカ系綿の一品種)」栽培に消極的だということのみで、朝鮮の農民は手足を縛られ、笞(むち)で打たれる有様でした。
これだけ見ても、かなりドン引きする内容です。
・徹底された「日本人化」教育
まさに『武断政治』にふさわしい恐ろしい支配が続く中、いわゆる「朝鮮人の日本人化を強制する」植民地教育が行われました。
もうこの時から、同化政策は始まっていたのです。
1911年8月23日、朝鮮人に日本語を強制し、天皇制日本の「忠良なる国民」となることを要求した『朝鮮教育令』が出された。
この教育令にもとづいて設立された公立学校は、朝鮮語・漢文の授業時間数は著しく制限され、朝鮮の地理や歴史は教えられず、代わりに日本語と日本の地理や歴史が教えられ、修身が必修とされた上に、日本人の教師が腰にサーベルをつって教壇に立ち、これを教えました。
まさに手塚治虫先生がおっしゃられた、「民族の歴史を奪われ、ふみにじられた」人々の姿がそこにあった。
他方、朝鮮人の自主的な私立学校や書堂は併合前の『私立学校令』や、これをさらに強化した『私立学校規則』(1911年10月)、『書堂規則』(1918年2月)などによって抑圧された。
・奪われ尽くした朝鮮の「遺産」 否定された歴史
1916年の『古蹟及遺物保存規則』や『古蹟調査委員会』の発足調査事業などは、学術調査の名の元に、朝鮮の文化遺産を量に奪い取るものでした。
そして、日本人学者たちの『日鮮同祖論』や『朝鮮社会停滞論』に代表される、朝鮮民族の自律的な発展を否定した『朝鮮文化論』や、国学交じりの朝鮮史が流布されていった。
・各地で抗日闘争相次ぐ
物理や精神で、日本の朝鮮に対する「収奪」が進行するなか、朝鮮人たちも黙っていたわけではありません。
一九一九(大正八)年三月一日から約三ヵ月にわたって朝鮮全土で爆発した反日暴動、朝鮮でいう三・一人民蜂起(三・一独立運動)は、こうした日本の圧制に対する最初の大規模な反抗だった。これは自然発生的な闘争ではあったが、日本の米騒動(一九一八年)、中国の五・四運動(一九一九年)とともに、一九一七年のロシア革命の影響下にアジアで起こった三大人民闘争であった。
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 50頁より
‐東アジアの今とこれから その12(『ロシア革命』より日朝中の連帯再び)‐
具体的な「連帯」への動きは1922年以降であり、詳細は上記に示してあります。
・悪しき『産米増殖計画』 宗主国に絞る取られる植民地朝鮮
三・一事件のあと、日本政府は朝鮮に対する「武断政策」を「文化政策」に改めると発表したが、それは憲兵を特高警察に変えただけで、朝鮮人に対する圧制はつづいた。
一九二〇年代に日本が朝鮮で実施した経済政策の中心は「産米増殖計画」であった。これは一九一八年の米騒動以来死活問題になってきた日本本国の食糧問題を解決するために、朝鮮で米の増産をはかったものである。朝鮮の穀倉地帯である南部の農業地帯には多額の資金が投下されて土地改良などがおこなわれたが、できた米はどんどん日本へはこび出された。朝鮮農民はいいぜん貧しく、土地を手放す者はかえってふえた。
『同』 50~51頁より
ブロック経済の帝国主義国家の本質として、上述の『産米増殖計画』における1920年代以降の本国による植民地からの収奪と現地市場と資本の徹底的な隷属化が行われた。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 226頁より
詳しく見ていくと、先の「文化政治」のもと、日本帝国主義は朝鮮経済を「日本資本主義に隷属」させるための政策を、いっそう露骨に展開した。
まあ一言でいえば、朝鮮を完全に日本の「道具」として使うことであり、それは食料や工業しかり、「兵站基地化」することに尽きます。
1920年3月には『会社令』を撤廃し、朝鮮人資本家を懐柔し、これを従属させつつ、日本資本の朝鮮への大々的な輸出の道を開いた。1930年代に比べるとまだ少ないものの、日本独占資本の本格的な資本輸出が、20年代に入り進みはじめたというわけです。
1919年に操業をはじめた三菱製鉄所「兼三浦(現松林(ソンリム))」工場に続き、同年代に釜山の朝鮮紡績工場、朝鮮窒素の興南工場、勝湖里(平壌郊外)の小野田セメントなどの大工場が相次いで出現。これらの大工場は、すべて朝鮮工業の内在的発展の結果うまれたものでなく、日本帝国主義の利益に沿って「移植されたもの」であり、朝鮮工業を植民地的な奇形性のもとにおくものでした。
よくネトウヨのような似非右翼が発するように、日本の統治により朝鮮が「近代化した」のはウソで、全体的にみれば、日本の植民地下におかれることによって、より貧しくなったのが事実です。
また、1920年8月に朝鮮の関税制度を廃止し、日本で施行されていた関税法を朝鮮でも適用することによって、朝鮮経済を排他的に、完全に日本資本主義の「附属物」に転換させることをはかった。
その結果どうなったかというと、朝鮮貿易に占める「対日本貿易」とその他「外国との貿易」の比率は、1920年の71対29から、1930年には82対18となり、「日本からの輸入額」は1910年を100とすれば、1920年には565、1930年で1097と激増し、そのうち綿織物を筆頭とする完成品が引き続き60%内外を占めた。
さらに、「日本への輸出」が朝鮮の対外輸出に占める割合は、1917年の77.5%から、1920年代は86.7%、1930年代には94.1%となりました。
その日本への対外輸出品の中では、農産物が最も多く、特に米が56%、大豆が5.6%(1931年)という状況です。
話をもどすと、この米の日本への「大量輸出」こそ、1920年代から始められた日本帝国主義による『産米増殖計画』の結果にほかならない。ゆえに朝鮮総督府の発表によれば、この計画の目的はざっと以下のようにまとめられます。
①「内地」(日本)の食糧問題の解決に役立てる
②朝鮮での食料需要の増加に備える
③あわせて朝鮮農家経済の向上、朝鮮経済の振興をはかる
しかし実際は、1918年に米騒動を引き起こし、食糧危機を暴露した日本が、その食糧難を打開しようとして計画したものに過ぎず、この事業が進むにつれ、特に②③の目標がどれだけ嘘っぱちか、それは誰の目にも明らかなことでした。
『産米増殖計画』によって、朝鮮は日本の重要な「食料供給地」とされ、年ごとに日本に持ち出される米は増加しました。
『同』 227頁より
だから朝鮮人は作れば作るほど、小作料などの収奪の強化、収奪した米の日本への移出によってその米を食べられなくなり、そのかわりに日本が「満州」から輸入したトウモロコシや粟(あわ)などの雑穀を主食とされた。
実に酷い話です。
さらに1930年代に入ると、その粟(あわ)などすら買えないほど朝鮮民衆の窮欠化が進み、先んじて産米増殖計画によって水利灌漑事業が進み、この事業に投資された日本資本の元本と利子を支払うため、朝鮮農民は強制的に加入させられ、従来なかった水利組合費(水税)の負担に苦しめられ、いっそう闇の底に没落していきました。
ハッキリ言って、あり得ないほどの「ヤクザ国家」ぶりです。
『同』 同頁より
「植民地人は宗主国民のために死ね」と、実際に多くの朝鮮人が命を落としているわけであって、まだまだ圧政は続き、日本帝国主義は綿花の作付けを強制し、繭(まゆ)を増産させ、かつこれらを日本資本が安く、確実に手に入れるために朝鮮農民から買いたたき、それを保障するために『共同販売制度』なるものを実施し、朝鮮農民の自由販売を禁止しました。
こうして日本の繊維産業の原料を朝鮮から安く手に入れ、これを加工して綿織物をはじめとする繊維製品を、はるかに高い値段で朝鮮に輸入することによって、朝鮮農民の家内手工業を破壊し、二重、三重の搾取をほしいままにした。
こんなんでどうやって生活するというのか。
事実、暮らしが破綻した朝鮮人は、山地に逃れて焼き畑耕作でわずかに生活をつなぐ火田民となったり、職を求めて都市に流入するする人たちや、「地獄」と化した祖国を抜け出して、日本で生きる道を見つけるために内地へ渡り、概ね在日コリアンのルーツにも関わってくる。
・加速する「兵站基地化」 皇民化政策 抗日パルチザンの出現
‐東アジアの今とこれから その22(満州事変、日中十五年戦争勃発、裏切者続々と現る)‐
皆さまもご周知のとおり、「満州国」建国後、中国への侵略戦争が泥沼化し、太平洋戦争における対アメリカ戦争に突入した日本は次第に追い込まれていきます。
そんな中、朝鮮人に対する「処遇」もより一層苛烈さを増していきました。
そのかたわら、日本は第一次大戦のさい蓄財された余剰資本を投下して、一九一九年以降、北朝鮮の「工業化」に着手した。これは一九三一(昭和六)年の「満州事変」のころから本格化し、戦争政策を支える朝鮮の「兵站基地化政策」となった。
一九三七(昭和一二)年の「日中戦争」開始とともに、朝鮮総督府は朝鮮人を日本人に「同化させる」方針を強化した。まず、朝鮮語の使用を全面的に禁止した。ついで朝鮮流の姓を日本流の姓氏に改めさせ(創氏改名)、また朝鮮人のおとなにも子供にも「皇民臣民の誓詞」と称する文章の暗誦を強制し、宮城(皇居)遙拝、武道体操をやらせ、家ごとに「天照皇大神宮」のお札を貼ることを強要した。
一九三九年以降、日本政府は戦争で不足した国内労働力を補うため朝鮮人を日本に強制連行する「労務動員計画」を実施し、さらに一九四四年からは徴兵制も適用した。戦争遂行のため動員された朝鮮人の総数は明らかでないが、戦後朝鮮大学校(東京)の教員、学生がおこなった調査によると、一九三九年から一九四五年までに日本に徴兵された者一〇〇万、朝鮮国内で動員された者四五〇万、軍人・軍属三七万、約六〇〇万人とみられている。
日本の統治下で、朝鮮人は反日独立運動を一日にもやめたことがなかった。一九二〇年代にはいって労働運動と農民運動が成長し、そのなかで一九二五年に朝鮮共産党が結成されると、反日運動はいっそう組織的なものになった。朝鮮共産党が日本の当局の苛烈な弾圧と内部の派閥争いのために一九二八年に解散したあと、朝鮮人の独立運動のおもな舞台は国外に移った。一九三二年のはじめには、中国東北地方(満州)の南部に金日成を指導者とする共産主義者の抗日パルチザンが出現し、武装闘争を展開した。朝鮮人の反日独立運動は、華北、華中、シベリア、アメリカ本国などでもおこなわれた。
※()は筆者註釈
時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 51~52頁より
‐意外と偏向していなかった!日テレの『朝鮮学校』特集その2‐
‐意外と偏向していなかった!日テレの『朝鮮学校』特集その3‐
創氏改名や同化政策を含めた『皇民化運動』の詳細については、上記の二つの記事で触れました。
今回は少し長くなってしまったので、次回は「ポツダム宣言」と「植民地解放」までの流れをお話します。
<参考資料>
・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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