日本史の研究者は、日本国家の起源を明らかにするために、朝鮮との関係を考えました。
そこに生まれたのは、国学の伝統を多分に残した「日鮮同祖論」でありました。
その代表的著作は『国史眼』(明治23年刊、34年再刊)で、著者は重野安繹(しげのやすつぐ)・星野恒(ほしのひさし)・久米邦武(くめくにたけ)の三人でした。彼らはともに東京帝国大学の教授であり、日本歴史学会の代表的学者でありました。
とりわけ、彼らは保守反動学者であったわけではございません。重野は抹殺博士の異名を持ち、史実でないものを否定し、児島高徳の存在を否認して国粋主義者の批判攻撃を浴びました。
久米は『神道は祭天の古俗』という論文で神官の攻撃を受け、ついに東大の教壇から追放されてしまいました(明治25年)。こういう人々が、朝鮮との関係を考えるときには、日鮮同祖論の立場にたちました。
たとえば、素戔嗚尊(スサノオ)が韓国に渡って支配者となったとか、稲氷命(イナヒノミコト)が新羅の王になったという具合に、次々と日鮮同祖論的「学説」を提示し、この『国史眼』はやがて、小学校や中学校の日本史教科書の手本となり、そこに示された日鮮同祖論的歴史知識は全国の生徒に植え付けられました。
まさに絵に描いたような「反朝教育」であり、戦前の日本はアジアに先駆けてこのような教育を国内に充実させていくのです。
そして日本が朝鮮を併合する段階に入ると、日鮮同祖論は一層つよく主張され、前述の久米邦武は『倭韓ともに日本神国なるを論ず』(史学雑誌二二篇一・二号)という論文を出しました。
とくに猛烈なのは喜田貞吉の主張です。
彼は併合の直後に『韓国の併合と国史』という本を出し、併合は日本と朝鮮との本来自然の姿にもどったのものだと言いました。
その内容については、次の機会に記事にしてみようと思います。
<参考文献>
・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房