『韓国併合ニ関スル条約』(1910年明治43年)Wikiより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84

 

朝鮮初代総督‐寺内正毅

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

 

 

大日本帝国下の朝鮮で行われた代表的な政策が「同化政策」。

 

以前私が、明治時代の朝鮮観シリーズで示した通り、この時期における日本人の朝鮮人に対する差別意識は、頂点を極めていました。

 

その政策を一言でいうと、「朝鮮人が朝鮮人であるという意識を捨て、日本人になることを理想とする政策」です。一見すると「日本人と同じ権利を得る」と思いますが、実際は様々な面で制約や差別を受けたり、過酷な労働を従事させられた挙句、働く賃金も本来の日本人にまったく及ばないものでした。

 

つまり、この政策がなされた背景は、朝鮮における「独立運動」を完全に挫き、言葉や名前、文化を奪うことによって、完全に「日本人の従順な奴隷」へと飼いならす目的でした。

 

この政策の根底をなす言葉が、時の大正天皇による詔書で示されています。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

『朕夙(つと)に朝鮮の康寧を以て念と為(な)し、其の民衆を愛撫すること一視同仁、朕が臣民として秋毫(しゅうごう)の差異あることなく、各其の生を聊(いささか)し、均しく休明の沢を享けしめんこと期せり』(三・一独立運動=万歳事件のあと 1919年8月19日より)

 

※夙に(つと‐に)~早くから。以前から/康寧~安寧。やすらかなこと/秋毫(しゅうごう)~わずか/聊(いささか)~少し/休明~君主の徳にあずかること

 

 

のちに、この同化政策は、日本が第二次世界大戦に突入する際に『皇民化運動』へと姿を変えます。名実ともに、日本人の「コマ」として、朝鮮人を戦地に駆り出す準備をしていったわけです。

 

 

そうした歴史の背景に、このフレーズがあるのです。

 

戦前の朝鮮人が負った労苦や絶望。言葉や文化を持たぬ民は、もはや虚像の彼方へと消えてゆくしかないのです。

 

 

 

 

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・『大正天皇の詔書』 1919年8月19日