前回の記事

 

‐東アジアの今とこれから その11(朝鮮国黒々と・・・)‐

 

 

 

『ロシア革命』<主にユリウス暦の「十月革命」を指す>(Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD

 

 

この革命が世界史、特に北東アジアに与えた影響は非常に大きい。

 

いよいよ朝鮮半島が、名実ともに『日本の版図』となり、社会主義運動と労働運動が、希望も光もない暗黒の「冬の時代」から立ち直り、日朝中の民衆が再び「連帯」へと導かれるとき、それは大正十年代の出来事でした。

 

これより先、日本の社会主義者はロシア革命には敏感な反応を示し、『東京社会主義者有志団』は二月革命のあと1917年5月1日『ロシア革命を支持する決議』を発表し、「万国の社会主義者は、帝国主義思想の虜囚たることを欲せざる限り、確固たる国際主義の立場に立たなければならない。国際労働階級の全力は、あげて我等共通の敵たる国際資本主義に対してむけなければならない。労働者階級は、この道を進む時はじめて、その歴史的使命を果たしうる」と決議しました(山辺健太郎、竹村英輔『十月革命が日本にあたえた影響』、『前衛』一九五七年・一二)

 

しかしながら、ロシア革命の強い影響のもとに起こった1919年の朝鮮における三・一独立運動や、中国の五・四運動には、何ら連帯も見せませんでした。

 

ロシア革命への連帯は、当革命への支持干渉戦争反対の運動となり、1920年の第一回メーデーでは『シベリア即時撤兵』が緊急動機で決議されました。

 

 

『シベリア出兵』<いわゆる「干渉戦争」>(同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%87%BA%E5%85%B5

 

1922年になると労農ロシア承認運動、対露非干渉運動、ロシア飢饉救済の運動へと広がりました。

 

 

『中国・間島地方』(同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6

 

一方、この時期中国の『間島』地方では、1919年4月沿海州パルチザン(朝鮮人とロシア人の連合パルチザン)との闘争、同年8月、甲山・恵山のパルチザン闘争、同年10月中国の延辺パルチザン(中国人と朝鮮人の連合パルチザン)の穏城進出戦、翌20年、沿海州パルチザンと日本軍の大戦闘、同年2月鳳梧洞の戦い、同10月琿春日本領事館への襲撃戦、続く和龍県の戦闘、というふうに、『間島』一帯に日本帝国主義反対の実質的な武力闘争が展開されました。

 

それは、すでに「朝鮮を越え」、『満州』をもたいらげんと欲し、領事館まで設置していた日本帝国主義に対する朝鮮人と中国人の連合した、命がけの闘いであり、しかも時に豆満江(トゥマンガン)をこえて朝鮮へ進出する『朝鮮独立』の闘いでもあり、またシベリアに出兵している日本軍と朝・ソ連合の闘いでもありました(日本朝鮮研究所刊 『日・朝・中三国人民の連帯の歴史と理論』)。

 

 

『延辺朝鮮族自治州』(同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E8%BE%BA%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%97%8F%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%B7%9E

 

日本は1920年10月、延辺地区でいっぺんに数万名の朝鮮人を虐殺する大弾圧を行いました(同前)。

 

「間島へ出兵要求」

 

「又復馬賊来!局子街危ふし 領事分館応戦準備」

 

「琿春大混乱 在留民続々避難」

 

「不逞鮮人 巡査を殺して逃ぐ」

 

「馬賊団の凶暴 放火掠奪、知事を生捕」

 

「唯出兵あるのみ」

 

当時の新聞(『東京日日新聞』)は、このような文句で日本人を脅かすものとして、徹底的に独立闘争を貶め、敵意剥き出しの報道を煽っていましたが、ちなみにこの新聞社、現在の『毎日新聞』の前身だそうです。

 

※東京日日新聞(Wikiより)

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%97%A5%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E

 

もちろん、当時の日本国内の動きとして、パルチザン闘争を支持する動きも、弾圧への抗議も、新聞のデマ宣伝への反論も、一切認められませんでした。

 

日朝中の連帯は、1922年に至ってはじめて運動化しました。

 

社会主義運動、労働運動が再建され、ロシア革命への連帯の運動さえ発展しながら、朝鮮民衆への連帯の運動が起こるまで一定の期間を要したのは、朝鮮がすでに日本の完全な植民地体制に組み込まれてしまっていたことに起因します。

 

ロシア革命、米騒動を契機として高揚した日本の労働運動、社会主義運動が朝鮮や中国の革命運動との連携し、連帯を確立する上で重要な意義を持つのは、コミンテルン主催の1922年1月モスクワで開かれた『極東の共産主義的、革命的組織の第一回大会』のいわゆる『極東民族大会』です。

 

この会合は「(第一次)世界大戦が終わってから帝国主義国の貪欲はいよいよ激しくなって極東諸国に襲いかかっている」とき、「極東地方の勤労大衆をこの帝国主義に対する兄弟的同盟に結合すること」に目的がありました。

 

同大会には、朝鮮、中国、日本、蒙古(モンゴル)、ブリヤート(ソ連邦・現ロシア共和国)、ジャバァ(ジャワ)島、カルムーク(同共和国)、インド、ヤクート(同)各国の代表が参加し、「ワシントン会議の成果と極東の情勢」「民族・植民地問題」「極東における共産主義者の任務に関するテーゼ」の決議、その決定や大会宣言などを採択しました。

 

特にすごいところが、極東民族に対する宣言にて、日本、アメリカ、イギリス、フランス、その他世界の略奪者(帝国主義国家=列強)に生死を賭して次のように宣戦しました。

 

「中国、朝鮮から、インド支那、蘭領インド(インドネシア)から彼らを追放せよ!彼等を太平洋諸島から叩き出せ!あらゆる極東侵略を打倒せよ!日本の労働者は中国、朝鮮の勤労者と兄弟のように手を握れ。・・・・・・」と。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

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