以前の記事まで述べたことは、「日鮮同祖論」を筆頭に主として日本人研究者が日本古代史を研究する中で唱えたものでありました。


これに対して、朝鮮史研究者(東洋史系統のもの)の側から反論が起こりました。


朝鮮史の研究は、明治20年代から始まりますが、その開拓者であった那珂通世(なかみちよ)・白鳥庫吉、ややおくれて明治末年から研究に加わった津田左右吉・池内宏・稲葉岩吉など、みな日鮮同祖論に批判的でありました。


日鮮同祖論者が国学の伝統に立ち、日本の古典を中心にして日本と朝鮮との関係を考えたのに対し、これら朝鮮史研究者は中国の古典を主体にして古代の東アジアの歴史を考え、日本古典の記載の誤りを指摘しました。そして日鮮同祖論が学問的には成立しえないことを論証しました。


これらの人々は、伝統的ドグマ(教義)の破壊には勇敢であり、一方では漢学が信奉していた儒教の経典を批判し、三皇五帝などの聖人を歴史から抹殺し、日本の古典についても批判を加え、日鮮同祖論を論難しました。


これ自体については、一つの大きな進歩と言えるでしょう。



ところが、この派の人々の偶像破壊は、のちにアジアに対する軽侮の念を残しました。


中国古伝説の否定は単に伝説の否定に終わらず、そういう伝説を生み出した中国人自身の思惟様式、さらに中国文明への侮蔑の念を生み出しました。


無論、漢学者はそれなりに中国文明への愛着は持っていたのですが、いまやそれも否定され、その中で日鮮同祖論の否定も同様であり、朝鮮への親近感もともに否定されました。


日本の戦前の朝鮮・中国研究者、特に東洋史系統の研究者のうちで、はたしてこれらの国々を愛着を持って研究したのはどれくらい居たでしょうか。むしろ研究するほど嫌いになるという傾向があったのは否定できません。



なぜそのようになったのかと言うと、彼らは研究者となる前に徹底的に西洋史学の方法(歴史哲学)や西洋文明への敬慕の立場から出発したのであり、そこから必然的にアジアを研究すれば、その後進性・未開な面を批判するようになるのは当然で、日本のなかの遅れたものや大アジア主義を批判する限りでは前進的意味を持ちましたが、アジア被圧迫民族の後進性を批判し、日本とアジアの距離(すなわち西洋文明への距離)を対比する場合には、抜きがたい優越感・アジア蔑視観を生み出しました。


つまり朝鮮や中国は価値なきものという意識であり、殊に朝鮮については、その文化はすべて「中国の模倣」であって、つまらぬ中国文化より一層おとるもの、という意識を生み出しました。


日本建国以来から江戸時代まで、さんざん大陸文化にお世話になっておきながら、よくぞ吐き捨てられたセリフですが、日清~日露戦争以後になると、より一層強く主張されていきました。



<参考資料>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房