https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

 

朝鮮は即ち日本の版図にして属邦にあらず、また植民地にあらず、即ち日本の延長なり 

 

大正天皇の詔書と同時に出た首相原敬の声明書(1919年8月19日)                                               

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93

 

朝鮮は即ち帝国(日本)の版図にして其の属邦にあらず、朝鮮人は即ち帝国臣民にして内地人(日本人)と何等差別あるにあらず、随って朝鮮の統治、また夙(つと)に同化の方針に基づき、一視同仁の大義に則り、敢て偏視無きを期せり

 

当時の朝鮮総督長谷川好道の言葉

 

※夙に(つと‐に)~早くから。以前から

 

戦前日本で、朝鮮人に行われた主な政策は「同化政策」でしたが、この方針が具体的に表れると、朝鮮人の伝統的な風俗・習慣・言語の無視、朝鮮人の民族意識・民族運動の否定、日本式の風習や日本語の強要、日本人意識(天皇崇拝、神社参拝など)の強制、さらには戦争への「日本人」としての動員ということに繋がっていきました。

 

これが『皇民化運動』の全体像ですが、同化政策から始まって、『皇国臣民の誓詞』というものを朗読を露骨なまでに強制されました。

 

主に小学校では「私共(朝鮮人)は大日本帝国の臣民であります。私共(同)は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共(同)は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」という誓詞が、中学校以上の学校や一般朝鮮人の集会では「我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国(日本)に報ぜん、云々」という誓詞が唱えさせられました。

 

このような、あり得ないまでの洗脳教育を朝鮮人に注入し、民族の誇りやアイデンティティをこれほどまでにズタボロとさせ、ましてや朝鮮語(韓国語)は学校や集会で使うことが禁止され、そこでは日本語の使用が強制されました。宮城(皇居)遙拝神社参拝も押し付けられ、さらに朝鮮人の姓名を日本式のものに改めることが強要されました。

 

所謂これが『創氏改名』です。

 

友人の母方の祖母さまは、姓が「金」氏だったから、日本名は「金倉(カネクラ)」といったところです。

 

また朝鮮人の伝統的な白衣(チョゴリ)の着用も禁止され、もはや正気の沙汰とは思われないことが、堂々と実行されました。そして朝鮮人の徴用・徴兵が行われ、「日本人」の一員として戦時動員の対象にもなり、朝鮮人を日本人に同化する基本政策からすると、こういうことは何ら不当なものではなく、極めて当然かつ自然のものでした。

 

朝鮮人であることをやめさせて、日本人にすることを、朝鮮人に対する「恩恵の賦与」と考える立場にたつと、民族の伝統を抹殺することが恩恵で、それがひどくなるほど恩恵が大きくなるわけですが、朝鮮民族の抹殺が、朝鮮人を日本人に引き上げることを意識した内容でした。

 

 

前の記事の大正天皇における詔書や、今回の首相や総督の声明文を読んでも、そこで示されているのは「日本と朝鮮との一体視」であり「日本と朝鮮との対立の否定」です。言い換えれば、朝鮮は属国でなく、朝鮮人は被支配民族でもなく、したがって朝鮮は植民地でないという解釈です。

 

しかしそれは、「朝鮮」や「朝鮮人」の存在を根底から否定し、最初から無きものであるかのごとく、朝鮮は日本の延長であり、その一地域にすぎない。ゆえに朝鮮を一切日本に「吸収する」ことによって、一体になろうとする意識です。

 

この思想を『一視同仁』と言い、実際のなりゆきは、前述のとおりです。

 

 

 

そうしたことを踏まえれば、ここに書かれている文章も非常に含蓄深いものになります。

 

国を奪われ、言葉や文化・風習までも取り上げられ、絶望と屈辱にまみれた史実を踏まえれば、それをいたずらに批判できるものではないでしょう。

 

つまり朝鮮学校は、そうしたリアリズムに立って、常に生々しい歴史と向かい合いながら、旧宗主国の地で、数少ない在日コリアンたちのために、民族の歴史や言語・文化を教え、かつてや今も味わう孤独と絶望に立ち向かう「勇気」を与える場なのです。

 

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・首相原敬の声明書 1919年8月19日

 

・第二代朝鮮総督 長谷川好道の言葉