前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その21(どこに行っても地獄だらけの植民地生活)‐

 

 

・大日本帝国の支配と朝鮮民衆

 

併合後の日本の暴力的支配のなかでも、朝鮮民衆の抗日運動は続けられた。

 

国内では主として、「非合法的」な教育・文化運動の形で反日運動が展開され、特に日本が国際的な紛議を恐れて、十分な弾圧を加えられなかったキリスト教や、イデオロギー的に「無害」とされた儒教や天道教(東学)などの宗教団体それらが経営する教育活動が運動の場となりました。

 

この筆頭である書堂はますます増加し、1918年には2万4294を数えて、日本の『同化政策』に抗して、国権回復のための愛国教育がつづけられた。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その19(続・過酷な植民地経営 強行された土地調査令)‐

 

また『土地調査事業』に対して、土地所有権と境界線をめぐる紛議は、3万3000余件も起こりましたが、その大部分は「国有化」に対する抗議であり、取りも直さず、日本の土地略奪に対する「朝鮮農民の抵抗」を表していて、当時生まれ始めた労働者階級も、運輸・交通・鉱山労働者を中心に、自然発生的なストライキ賃上げを要求する争議に立ち上がりはじめた。

 

これら農民や労働者の争議は、いずれも過酷な弾圧体制のなかで、組織的に展開されることはありませんでしたが、急速に「民族的」「階級的性格」を強めざるを得なかった。

 

 

『中国・間島地方』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6

 

さらに国外では、義兵運動後の中国東北地方間島(白頭山<ペットゥサン>の北側、朝鮮と中国の国境を接する数県にまたがる地域で、朝鮮からの移住民が人口の大多数を占めていた)一帯を中心独立軍の形成がはじまり、上海アメリカでも、知識人・青年学生らの独立運動が展開された。

 

こうした動きに対して、日本は『寺内総督暗殺未遂事件』を捏造し、梁起鐸<ヤンギタッ>らの独立運動家やキリスト教徒、約600名を逮捕し、うち105名を起訴して運動の根絶をはかった(『105名事件』)。

 

何としてでも、反乱分子は抑えようとして、帝国政府側も「治安維持強化」に躍起となっていましたが、そうすればするほど、『日本帝国主義の矛盾』をいっそう激化せずにはいられなかった。

 

 

・大正政変から第一次世界大戦へ 拡大する日本資本主義と広がる「矛盾」

 

 

クール・スーサン(音楽 芸術 医学 人生 歴史) 『大正政変』記事より

 

https://www.cool-susan.com/2018/01/13/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89/

 

内地では、日露戦争後の「軍備拡大」が、国民の不満を醸成し、朝鮮支配のための『陸軍二個師団の増設問題』を契機に、桂軍閥内閣を打倒する民衆運動が起こります(いわゆる『大正政変』)。

 

 

『桂太郎』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89

 

1913年の憲政擁護の民衆運動で第3次桂太郎内閣が倒された政変。1912年陸軍の二個師団増設問題で第2次西園寺公望内閣が倒れると,元老会議での後継首班推薦は難航し,結局この年8月大正天皇即位にともない内大臣として宮中入りした桂太郎を推薦した。桂はとくに天皇に詔勅を出させて組閣に着手し,軍備拡張を入閣の条件とした海軍大臣斎藤実をも詔勅によって留任させ,組閣を完了した。こうした軍部の横暴,桂の再度の詔勅による組閣に対する藩閥の非立憲的行動に,ジャーナリスト,政党院外団,交詢社系の実業家,政治家は憲政擁護会を結成,〈閥族打破,憲政擁護〉をスローガンに運動を起こした。

 

『大正政変』 (コトバンクより)

 

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%94%BF%E5%A4%89-557401

 

このとき、1914年『第一次世界大戦』が勃発します。

 

 

『ヨーロッパの参戦国 同盟国(赤紫)、連合国(薄緑)、中立国(黄)。』 中学校社会 歴史/第一次世界大戦 記事より

 

https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6

 

日本の支配者たちは、これを「大正新時代の天佑(天の助け)」と喜び、なるほど日本での軍部支配に対する民衆運動はなりをひそめ、体制の危機的動揺は一時退けられた。

 

国家一個分の「総力戦」となった、同大戦では、欧米列強のアジア市場からの「一時的後退」を生み出し、その留守に乗じて、日本は「中国市場の独占化」をはじめた。結果、世界市場に進出し、日本資本主義は飛躍的発展を遂げます。

 

しかし、それは矛盾をより「大規模な爆発」と用意するものでしかなかった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その21(どこに行っても地獄だらけの植民地生活)‐

 

とくに朝鮮では、先に見たように朝鮮経済を「植民地的に再編成」しつつ、第一次世界大戦をチャンスとして「成長した日本独占資本」が、たちまち新たな進出を見せ、朝鮮民衆の状態を、いっそう耐え難いものとした。

 

朝鮮銀行の通貨乱発によるインフレ政策は、1916年以降「物価の高騰」を招き、日本国内の米価騰貴と結びついて、日本商人の「朝鮮米買占め」「対日輸出の増加」が、外地である朝鮮の米価高騰を激しいものとした。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その20(続・過酷な植民地経営 強行された会社令)‐

 

さらに、日本資本主義の拡大は、日本資本の朝鮮進出をいちだんと激しいものとして、1918年6月『会社令』が改正され、許可件数が軒並み急増しはじめます。

 

殊に、資本規模の巨大な日本企業が露骨さを強め、このなかで利益を得たのは、日本資本巨大日本人大地主ならびに一握りの朝鮮人大地主だけでした。

 

大地主は、インフレの中で資本を蓄積し、金融・工業部門の進出に着手しましたが、一方、朝鮮人民の生活は、ますます破壊された。

 

その被害者は、主に農民であり、彼らの暮らしがめちゃくちゃになれば、「家財放売」「一家離散」は珍しくなく、さらに1919年の朝鮮中西部をおそった干ばつは、農民生活の窮状を、いよいよこの上ないレベルに陥れ、粘土を水に混ぜて食するという状態さえ見られた。

 

労働者の実質賃金も低下し、生活は飢餓の境に落ち込み、中小商人も物価騰貴と金融逼迫により、常に不安を募らせていた。

 

それだけに、朝鮮民衆の抵抗は次第に活発化していった。

 

最初に農民が秘密結社を作り上げて、抗日闘争を開始します。面事務所や憲兵分遣所を襲撃する農民暴動が起こり、労働者階級もこれに合わせて組織的な闘争を繰り広げていき、1917年以後「労働組合の結成」が進みはじめ、1918年を画期として労働者ストライキが増加した。

 

‐東アジアの今とこれから その12(『ロシア革命』より日朝中の連帯再び)‐

 

これに先立つ1917年には、『ロシア革命』が起こり、朝鮮人民に「大きな影響」をあたえた。またそれ自体は幻想であったが、ウィルソンの『民族自決宣言』も、第一次大戦後の「世界的な革命運動の高揚」において、朝鮮民衆の独立運動に新たなパラダイムを提供した。

 

ここに、かつてない大規模な独立闘争である『三・一独立運動』が準備されつつあった。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

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