前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その23(今年で100周年『三・一独立運動』を考える)‐

 

 

・丸腰の民衆に対する 「すさまじい弾圧」

 

일러스트=김성규 기자<イラスト=キムソンギュ記者より>

 

『独立宣言は なぜ3月1日におこなわれたのか』 (チョソンメディアより)

 

http://newsteacher.chosun.com/site/data/html_dir/2014/02/25/2014022500319.html

 

 

『三・一運動 示威参与人数と死亡者数』 (『15.1919년, 독립만세의 함성(1919.~1930) -2.독립선언과 만세시위운동의 전개<15.1919年、独立万歳の歓声(1919.~1930)-2.独立宣言と万歳示威運動の展開>』記事より)

 

http://m.blog.daum.net/osu0582/2812?np_nil_b=-2

 

前回の、3月1日に行われた「朝鮮独立運動」に対して、宗主国側の日本は、ありったけの軍事力を持ってして「鎮圧」に乗り出しました。

 

徒手空拳で示威行進する人々に、憲兵・軍隊が無慈悲に発砲した。それは群衆を「解散させるため」の威嚇などではなく体制に逆らった意味『射殺すること』自体が目的だったからです。

 

憲兵が、群衆を分遣所の内庭に集めて、一斉射撃をして「虐殺」したことも、稀ではなく、水原郡提岩里<スウォングンチェンアㇺリ>では、日本軍が村人を教会堂にあつめ、出入り口を閉ざし、外から銃火を浴びせた。その上で、教会堂を放火して生き残った人々もろとも、一人残らず焼き殺した事件も、街頭で「万歳」を叫んだだけで、突如として背後からサーベルで巡査に切り殺された青年しかり、夫が運動に参加したとして殴られた婦人。まして検挙された人々には、天井から吊るし、焼け火箸を押し付けたり、針をさしたり、鼻から水を注入するなどの拷問が平気で行われた。

 

 

『수원제암리참변(水原堤岩里慘變)<スウォンチェアㇺリ惨事>』 (韓国民族文化大百科事典より)

 

정의(定義)

 

 1919년 3·1운동에 대한 일제의 보복 행위로 일본 군경이 수원군 향남면(지금의 경기도 화성시 향남읍) 제암리에 사는 민간인 20여 명을 학살하고 민가 30여 호를 불태운 참변. <1919年 三・一運動に対する日帝の「報復措置」として、日本の軍警が水原郡・鄕南面(現在の京畿道・華城市・郷南邑)提岩里に暮らす、民間人20余名を虐殺し、民家30余りを燃やした惨事>

 

同記事より

 

http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0031610

 

そのような、日本人による暴力・殺人・放火は枚挙にいとまず、蜂起が高揚すると、日本本土(内地)からの「軍隊増援」が決定され、蛮行はさらに拍車をかけた。

 

さらに、朝鮮に駐留する日本人には「日本人の家屋一つでも焼かれれば朝鮮人の全家屋が焼け、日本人一人でも殺傷されれば、できるだけ多数の朝鮮人を殺せ」という『防衛団』(自警団的なもの)が組織され、「民族的対立」をいっそう煽った。

 

 

・武力支配の限界と 新たに模索された「分断支配」

 

日本の官憲側のひかえめの資料でも、1919年3月1日から5月末までの間に、7509人が殺され、1万5961が負傷し、4万6948人が検挙、その多くが虐殺された。

 

この弾圧の残虐さは、それにあたった者みずからさえ恐れていたほどでした。

 

 

『山縣伊三郎 当時の朝鮮政務総監』 (Wikiより)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%B8%A3%E4%BC%8A%E4%B8%89%E9%83%8E

 

「今回ノ騒擾ニ対シ官憲ノ取レル過度ノ鎮圧方法ヲ憂ヒ、而モ自ラ之ヲ軍人諸官ニ命令スルノ権ヲ有セザルコトヲ嘆ゼリ」 

 

(『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 216頁より)

 

そのような、おぞましい弾圧のなかでも、朝鮮民衆の闘争は約1年間もつづいた。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その22(『三・一独立運動』前夜 蔓延る帝国の矛盾)‐

 

国外でも、たたかいは展開され、中国東北地方における間島地方や、ソビエト領沿海州での武装闘争はつづき、先に提示した、消極的な民族ブルジョアジーの中でも、武装した独立軍の方向にすすむ者さえもあらわれた。

 

こうして日本の朝鮮支配は、「いくら軍備を強化」しても、単純な武力弾圧だけでは、とうてい安定させられないことがわかった。

 

そこで、大地主や民族ブルジョアジーの一部に、若干の「自由」や「特権」を与えて支配の支柱に組み入れ、労働者や農民と対抗させ、一種の「分断支配」を持ち込み、民族的団結を阻止しようとする新たな支配体系が生まれた。

 

こうした意味でも、朝鮮人民の解放闘争は「新しい段階」に突入していきます。

 

 

・ソビエト革命による帝国主義陣営の苦境と 日本の植民地支配の「危機」

 

さらに、この運動は国際的にも「重要な意義」をもっていた。なるほど帝国主義列強は、この運動を援助するわけなどなく、アメリカは一片の同情すらよせず、むしろ「内政問題」だとして、日本の弾圧に支持を寄せた。

 

マスコミに載らない海外記事 『ジョシュア・ウォン、フアン・グアイド 新世代の親欧米「聖人」』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-0156d6.html

 

同 『彼らの都市が中国本土に負けているため、一部の香港人はいらだっている』

 

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2019/10/post-daaa0c.html

 

結局、現在の『香港デモ』のように、「自国権益」にもとづく内政干渉には、昔から熱心だが、一部の民族ブルジョアジーたちが、米大統領ウィルソンの『民族自決宣言』によせた期待が「まったくの幻想」に過ぎなかったことは、この時点で明らかになります。

 

朝鮮民衆が、日本帝国主義の支配に「大きな打撃」を与えたあとに、今度は中国民衆『五・四運動』で蜂起し、「帝国主義の支配」を確実にゆるがせた。

 

 

『デモ行進する北京大学の学生』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%9B%9B%E9%81%8B%E5%8B%95

 

総じて、第一次世界大戦1917年のロシアにおける世界最初の社会主義革命、それにつづくヨーロッパ諸国での革命運動の高揚と、アジアをはじめとする被圧迫諸国民の民族的解放運動の激化は、世界の「資本主義」を全般的・体制的な危機に陥れた。

 

日本資本主義も、この「資本主義の全般的危機の一環」に組み込まれ、リスクを深めていきます。とりわけ、朝鮮における三・一運動と、それ以後の民衆たちの「解放運動の発展」は、中国人民の闘争と一緒に、1918年の日本民衆の米騒動に加え、自国帝国主義の「難局」を深めていく、最も大きな3つの要素でした。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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