前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その26(斎藤実の文化政治と間島の朝鮮人虐殺)‐
・「経済」の側から 浸食した『産米増殖計画』
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 226頁より
「文化政治」のもと、主に教育面で同化を促せつつ、さらに日本帝国主義は、朝鮮経済を「日本資本主義に隷属」させるための政策を、いっそう露骨に展開した。
1920年8月、朝鮮の関税制度を廃止し、日本で施行されていた関税法を「朝鮮でも適用」することによって、朝鮮経済を排他的に、完全な日本主義の「附属物」として転換させることをはかった。
その結果、朝鮮貿易に占める「対日本貿易」と、その他外国との貿易比率は、1920年の71対29から、1930年には82対21となった。しかも、日本からの輸入額は1910年を100とすれば、1920年には565、1930年で1097と激増し、その内、綿織物を筆頭とする完成品(製品)が、ひきつづき60%内外を占めた。また、日本への輸出が占める割合(朝鮮の対外輸出)は、1917年の77.5%から、1920年には86.7%、そして1930年には94.1%となる。
その「対外輸出品」の中では、農産物が最も多く、特にコメが56%、大豆が5.6%(1931年)という状況を示した。
記事の本題ともなるべき、この「コメの日本への大量輸出」こそが、1920年から始められた日本帝国主義による『産米増殖計画』の結果に他ならない。
→산미 증식 계획이 시작된 1920년과 쌀 생산량이 가장 많았던 1928년을 비교해 보면, 쌀의 생산량은 약 30% 정도 증가하였지만, 일본으로 실어 내간 수탈량은 5배 정도 증가한 것을 알 수 있다. 그 결과 한국인의 1인당 쌀 소비량은 3분의 2 정도로 감소하였다. 농민들은 생계를 위해, 또는 수리 조합비 등 생산 비용 마련을 위해 토지를 팔고 소작농이 되거나 국외로 이주하는 경우가 많았음
<→産米増殖計画がはじまった1920年と、コメ生産量がもっとも多かった1928年を比較すれば、コメの生産量は約30%程度増加したが、日本に流出した収奪量は5倍程度増加したことがわかる。その結果、韓国人(朝鮮人)の一人あたりのコメ消費量は3分の2まで減少することになった。農民たちは生活のため、または水利組合費などの生産費用をまかなうために、土地を売り、小作農になったり、国外に移住するケースが多かった>
『산미 증식 계획과 회사령<産米増殖計画と会社令>』
http://study.zum.com/book/13264
朝鮮総督府の発表によれば、この計画の目的は以下の通りになります。
1.内地(日本)の「食糧問題の解決」に役立てる
2.朝鮮での食料需要の増加に備える
3.あわせて朝鮮農家経済の向上、朝鮮経済の振興をはかる
と、三つのポイントからなっていますが、実際は1918年の『米騒動』がおこり、食糧危機を暴露した日本が、自国の「食糧難」を打開しようとして計画したものに過ぎない。
当計画が進むにつれ、2・3の目標がどれだけ欺瞞的なものであったか、それは誰の目にも明らかになった。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 227頁より
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その19(続・過酷な植民地経営 強行された土地調査令)‐
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その21(どこに行っても地獄だらけの植民地生活)‐
隷属化された植民地経済と産米増殖計画により、朝鮮は日本の「重要な食糧供給地」とされ、年ごとに日本に持ち出されるコメは増加した。朝鮮人は作れば作るほど、小作料などの収奪強化と合わせ、持ち出されたコメの日本への移出によって、そのコメを食べられなくなり、代わりに日本が「満州」から輸入した玉蜀黍(トウモロコシ)や粟(あわ)などの雑穀を主食とさせられた。
さらに、1930年代にはいると、その粟すら買えないほど朝鮮民衆の窮欠化がすすんだ。
また、産米増殖計画によって、「水利灌漑事業」がすすめられたが、この事業に投資された日本資本の元本と利子を支払うために、朝鮮農民は水利組合に「強制加入」させられ、先の韓国語統計にも見られたように、「水利組合費(水税)」の負担に追いやられて、いっそう没落した。
つづけて日本帝国主義は、綿花の作付(さくつけ)を強制し、繭(まゆ)を増産させ、かつこれらを日本資本が安く、確実に手に入れるために朝鮮農民から買いたたき、それを保障するために「共同販売制度」なるものを実施し、価格設定ができる自由販売を禁じた。
こうして、日本の繊維産業の原料(直接材料)を、朝鮮から安く手に入れ、製造原価をおさえる形で、加工して綿織物をはじめとする繊維製品を、はるかに高い値段で朝鮮に売りつけることによって、現地の家内手工業を破壊し、二重、三重の搾取をほしいままにした。
・大規模な資本輸出 「奇形化」する朝鮮工業
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その20(続・過酷な植民地経営 強行された会社令)‐
1920年3月、会社令を撤廃し、朝鮮人資本家を懐柔して、これを隷属化させることをはかるとともに、日本資本の朝鮮への「大々的な輸出」の道をひらく。
『松林(旧兼二浦)』
『朝鮮要覧 1973』 現代朝鮮研究会 時事通信社より
『日本統治時代の日本製鐵兼二浦製鐡所』
1917年(大正6年)に、三菱財閥系の三菱製鐡によって建設された製鉄所である。三菱製鐡の製鉄合同への参加により、1934年(昭和9年)に日鐵の兼二浦製鐡所となった。1945年(昭和20年)の太平洋戦争終戦に伴い、日鐵の手を離れた。1920年代の一時期を除いて、高炉による銑鉄製造から製鋼、鋼材圧延までを手がける銑鋼一貫製鉄所であった。
製鉄所の立地する兼二浦は朝鮮半島西側(黄海)の町である。周囲には鉱山(鉄山)があり、それらから供給される鉄鉱石で兼二浦製鐡所は鉄鋼を製造していた。
Wikipedia『日本製鐵兼二浦製鉄所』より
1930年代に比べると、まだ少ないものの、日本独占資本の本格的な資本輸出が、1920年代に入って進み始めた。1919年に操業をはじめた『三菱製鉄所』「兼二浦(黄海道<ファンへド>、この地名は日本の役人が自分の名をとって勝手につけたもので、現在は松林<ソンリム>と改称されている)」工場につづいて、続々と「工場建設」が進んだ。
『朝鮮紡織株式会社』
http://busan.chu.jp/korea/old/fukei/ton/b1/cbn.html
『朝鮮窒素肥料 興南工場』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%88%E5%8D%97%E5%8C%BA%E5%9F%9F
『勝湖里・小野田セメント工場』 (写真上)
1920年代の釜山<プサン>・朝鮮紡績工場、朝鮮窒素の興南<フンナム>工場、勝湖里<スンホリ>(平壌郊外)・小野田セメントなどの大工場が出現した。
これらの「大工場」は、すべて朝鮮工業の「内在的発展の結果」生まれたものではなく、日本帝国主義の利益に沿って「移植されたもの」であり、朝鮮工業を植民地的な奇形性のもとにおくものでした。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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