前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その25(発展する独立運動と巧妙化する支配システム)‐
・朝鮮人の「同化推進」 『文化政治』の実像
『原敬(はらたかし) 第19代 内閣総理大臣』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC
「世上に嘖々たる(言い立てる)人心の変化は実は何事を意味するや不明なるも、余の所見にては欧洲の大戦争より動もすれば突飛にて不秩序なる変動を生ぜんとするの虞(おそれ)あるに依り、今日は大切なる時機なれば尋常の決心にては不可なりと思ふ・・・・・・」
『原敬日記』 一九一九四月二日
※()は筆者註
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 222頁より
三・一独立運動がおこったとき、日本政府の首相、原敬は日記にこう書いた。
━ロシア革命・米騒動、そしていま大日本帝国「最大の植民地」であり、大陸侵略の拠点でもあった朝鮮に起こる大独立運動。これらは原敬には理解しがたい変動でした。それだけに、一抹の不安もなくはなかったが、同時に断固として日本帝国主義の「秩序」を貫き通そうと決意していた。
『第三代朝鮮総督 斎藤実』
(사이토 마코토 총독의 교육시책<斎藤実総督の教育施策>より)
三・一運動のさなかに、日本政府は海軍大将の斎藤実を「朝鮮のトップ」に就任させた。
それと同時に、世界に暴露された日本の朝鮮に対する軍事的支配=武断政治を、「大改革」するかのように、『文化政治』なる看板を掲げた。しかし、今までの記事で何度か触れてきたように、徹頭徹尾、欺瞞にみちたものでした。
※日本の「朝鮮支配の系譜」 右の文字と黒線は筆者註
『資料:歴代韓国統監・朝鮮総督』
http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_kyozai/SSoutoku.htm
朝鮮総督への「任用」を、陸海軍大将に限定する制度を廃止し、文官にもその「門徒」を開いたが、事実上、1945年まで一貫し総督は陸軍大将(斎藤実だけが例外だがこれも海軍大将)で占められていたし、憲兵による治安維持を「普通警察」に変えたとて、警察力はかえって強化され、憲兵・軍隊もひきつづき厳存した。
‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その6(支配と同化が残したもの)‐
また「内地(日本)に準拠した教育」を普及するといったが、それは『内鮮一体・一視同仁』の名のもとに、朝鮮人の「日本人への同化」を強め、かつ朝鮮人には「日常の常識」と、ごく「初歩的な技術」を教えるにとどめるものでした。
1920年以後、かの有名な『東亜日報<トンアイㇽボ>』『朝鮮日報<チョソンイㇽボ>』をはじめ、『時代日報<シデイㇽボ>』などの新聞や、『開闢<ケビョッ>』などの雑誌が、相次いで朝鮮語(韓国語)で刊行されるようになりましたが、検閲はひどく厳しく、削除・押収・罰金・停刊・廃刊などが日常的におこなわれた。
また、朝鮮人の「政治参与の実現」という触れ込みで、1920年に、当時の朝鮮行政単位である府・面(府は日本でいう市、面は村にあたる)協議会会員の民選がおこなわれたが、いずれも「日本人の多い府・面」に限った話で、しかも朝鮮人では「お金持ちだけ」に選挙権を与えるという、欺瞞的なものでした。
・新総督・斎藤実を「爆弾で迎えた」 朝鮮の独立運動家
『▲ 강우규 의사 (출처: 국사편찬위원회)<▲カンウギュ義士 (出典:国史編纂委員会)>』
斎藤総督が朝鮮に赴任して、京城(現ソウル)の駅頭に降り立ったとき、白髪の老人姜宇奎<カンウギュ>(1855~1920)は、爆弾を投げつけてこれを迎えた。
国勢の衰えに悲憤し、間島(中国・延辺)や露領(シベリア)で学校をつくり、独立のための人材養成に我が身を捧げてきた、この老愛国者は、三・一独立運動に決起した朝鮮人が、日本の新しい総督の来任と、その「新政策」を全面的に拒否するという気概を、身をもってあらわしたのでした。
・『琿春事件』 間島(カンド)の朝鮮人虐殺
『朝鮮総督府庁舎』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C
日本帝国主義は、口では「文化政治」を語りつつ、一方で朝鮮人に仮借ない弾圧を加えた。
『中国・間島地方』(同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6
朝鮮の地続きの豆満江<トゥマンガン>の対岸、中国領の間島(延辺)一帯では、三・一独立運動に引き続き、そこに存在する朝鮮人によって、活発な独立運動が展開されていた。武力による抗日、そしてマルクス・レーニン主義にもとづく反帝国主義団体も、軍事組織をつくり、故国朝鮮に出撃し、憲兵を殺害し、面長を拉致し、巡査派出所を焼き払った。
この間島(カンド)における独立闘争が、朝鮮に「全面的波及」をすれば、日本の朝鮮支配も危うくなる━と考えて、間島の朝鮮人に「大打撃」を与えるために仕組まれたのが、1920年秋の『琿春<フンチュン>事件』です。
『일본, 훈춘(琿春) 조선인 학살 (훈춘 사건, 간도 참변, 경신 참변)<日本、琿春朝鮮人虐殺(琿春事件、間島惨事、庚申惨事)>』記事より
事のあらましは、日本軍が事前工作を施し、中国人馬賊の頭目と通じ、武器・金銭を与えて琿春(朝鮮国境そしてソ連領に接する町)を襲撃させ、それをあたかも、朝鮮人が間島の日本人居留民を襲ったかのように見せかけたのが、この『琿春事件』でした。
「間島へ出兵要求」
「又復馬賊来!局子街危ふし 領事分館応戦準備」
「琿春大混乱 在留民続々避難」
「不逞鮮人 巡査を殺して逃ぐ」
「馬賊団の凶暴 放火掠奪、知事を生捕」
「唯出兵あるのみ」
当時の新聞(『東京日日新聞』)は、このような文句で日本人を脅かすものとして、徹底的に独立闘争を貶め、敵意剥き出しの報道を煽っていましたが、ちなみにこの新聞社、現在の『毎日新聞』の前身だそうです。
‐東アジアの今とこれから その12(『ロシア革命』より日朝中の連帯再び)‐
結果、日本軍はこれを契機として、間島一帯に大部隊を出兵させる。
『청산리대첩은 총 아홉 번, 홍범도와 김좌진 등 연합부대의 전략전술과 유격전의 승리,<青山里大勝利は総九回、ホン・ボンドとキム・ジャジンなど、連合部隊の戦略戦術と遊撃戦の勝利,>』
https://www.youtube.com/watch?v=CJYiZVSUjWg
※洪範図<ホン・ボンド>について
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その16(反植民地闘争を繰り広げた義兵たち)‐
しかし、10月下旬、青山里<チョンサンリ>(白頭山麓の和竜県にある村)の戦闘で、朝鮮の独立軍が日本軍に大損害を与えるなど、朝鮮民衆は日本軍をさんざん悩ませた。
━日本軍はこれに対し、間島を中心に朝鮮人集落を見境なしに襲い、朝鮮人を大量に虐殺した。1920年10月5日から11月23日までの、約50日間だけでも、3000余名が殺され、家屋2500余戸、穀類3万8000余石が焼かれた(朴殷植・姜徳相訳 『朝鮮独立運動の血史2』)。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
・Youtube動画 『청산리대첩은 총 아홉 번, 홍범도와 김좌진 등 연합부대의 전략전술과 유격전의 승리,<青山里大勝利は総九回、ホンボンドとキムジャジンなど、連合部隊の戦略戦術と遊撃戦の勝利,>』
https://www.youtube.com/watch?v=CJYiZVSUjWg
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