前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その5(徴兵・徴発・強制連行)‐

 

 

・大戦末期における朝鮮の悲惨な現状

 

上の記事で、将来に禍根しか残さない非人道的な扱いを朝鮮人に振り向けましたが、日本が戦争に負ける時が近づくにつれ、その酷さは強まっていった。

 

彼らを奉仕させるために、すでに疲弊していた農村からも容赦なく労働力を奪い、そうすることによって、なおさら農業を荒廃させました。

 

さらに加えて、食糧の強制的な「供出」制度が強行された。これは1939年から食料の配給制度「米価公定制」が発表されると同時に行われたものでしたが、この「供出」制により、米の全生産高43・1%(1941年)45・2%(1942年)55・7%(1943年)、そして敗戦間近の1944年には63・8%が、外地(朝鮮)から内地(日本)へ持ち去られました。

 

この狂った状況に、日本の支配者自身らも認めざる得なかった。

 

 

『帝国議会』 (コトバンクより)

 

https://kotobank.jp/word/%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E8%AD%B0%E4%BC%9A-100022

 

朝鮮農民のあいだでは「時局ノ重圧、統制経済ノ強化ト相俟テ、殊ニ自家食糧ノ窮屈化ハ農民の不平不満トナリテ日ト共ニ深刻化シ遂ニ大挙増配陳情、供出関係職員トノ暴力的摩擦衝突事案、悪質ナル供出忌避事案多発ノ傾向ヲ示シ延テ厭農、反官思想スラ醸成セラレツツアリテ食料供出ハ朝鮮農村ノ当面セル最モ切実ナル問題ノ一トシテ取扱ハレ治安上ヨリスルモ極メテ重大視セラレツツアリ」

 

(第八五回帝国議会における説明。山辺健太郎『日本統治下の朝鮮』所収)

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 253頁より

 

 

・「植民地・朝鮮」

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その4(過去の歴史を振り返る)‐

 

このように、朝鮮の民族的特性を最後のひとかけらまで消し去ろうとし、物的な資源はもちろんのこと、人間そのものを「奴隷狩り」同様に連行した太平洋戦争下の日本帝国主義の朝鮮に対する植民地政策は、いわば1910年以来の日本の「朝鮮政策」を、最大限に推し進めたもの、いわばその集大成であった。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐

 

それは、農村を荒廃させ、地下資源を掘り漁り、朝鮮経済の発展など頭から無視した偏った工業を作り出し、農民を零落させ、労働者を低賃金で長時間酷使し(その体質は現代も変わっていない)、民族資本を存立することすら困難にした━等々の、目に見えた朝鮮の植民地化を、とことんまで推し進めただけではない。こうした状況のもとでも、2300万人(1945年ごろの総人口)の朝鮮人は、朝鮮で生活しなければならなかった。

 

その朝鮮人の思想・心情・人となりにも━いわばそれと目に見えないところにも、日本の朝鮮に対する植民地政策が痛手を与え、作用を及ぼさないはずはなかった。植民地支配朝鮮人の人間性までも破壊しようとする暴力だったのである。

 

 

・内鮮一体(内地<日本>と朝鮮の一体化)

 

・・・・・・やがて、皇帝は、世界の様子と東亜の形勢とを察して、朝鮮の人々をしあわせにし、東亜の平和をたもつためには、わが国と一体になって、皇帝の御めぐみをいただくのが一ばんよいとお考へになりました。朝鮮の人々の中にも、同じやうに考えるものが多くなったので、皇帝は、明治四十三年に、この事を明治天皇に御ねがひになりました。天皇は、もっともにおぼしめしになり、皇帝の御のぞみどほりに、これから朝鮮をお治めになって、東亜のまもりをますますおかためになりました。そこで、内鮮は一体になって、東亜の共栄圏をきづくもとゐができてゆきました。

 

『同』 254頁より

 

これは朝鮮総督府が、1941年3月に発行した教科書『初等国史』に書かれた、いわゆる「日韓併合」=日本帝国主義が朝鮮を植民地にした部分の叙述です。もちろん、このような叙述が、このときにはじまったものでないことは言うまでもありませんが、1910年以後それは一貫していたし、「明治天皇」をはじめ「天皇のおめぐみ」が、ことのほか強調されてきた。

 

しかし「朝鮮の現実」を見れば、その「理想」とは程遠いものであった。だからといって、これを「ウソだ!」と公然と言い放つことが不可能にされて久しかったわけです。強権による「日本臣民化」政策が、夜を日に次いで強化されていくとき、朝鮮人は生きていくのに、どんな道であったのか。

 

 

・「同化」とアイデンティティ

 

間島をはじめとする中国か、日本以外の外国に出て、独立運動を非妥協的にたたかうか。

 

少なからぬ朝鮮人が、困難を覚悟の上でこの道を選びました。たとえば、機会をみつけて中国に行き、日本の占領下から脱出して、『華北朝鮮独立同盟』が展開していた抗日戦線に投じた作家、金史良(キム・サリャン)はそうした一人であった。

 

三・一独立運動以後、急速に成長しはじめていた朝鮮の近代文学は、やがてプロレタリア文学を生み出し、朝鮮のプロレタリア芸術連盟(カップ)によるプロレタリア文学の創作活動へと発展したが、満州事変がはじまって、日本帝国主義の弾圧に潰え去り、李箕永(イ・ギヨン)、韓雪野(ハン・ソルヤ)など、いずれも1920年代から創作活動をはじめた作家で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に作品が現存していますが、当時の彼らは農村に引っ込むか、または獄中にありました(金達寿「太平洋戦争下の朝鮮文学」『文学』1961年8月号)。

 

1939年10月『朝鮮文人協会』(チョソンムニンヒョッペ)が作られ、日本語による国策的な創作活動が強要された。凄まじい「日本臣民化」政策のもとで、沈黙もまた至難のわざであった。

 

そうしたとき、一個の人間としての存在をどうして主張できるのか。絶望か、はたまた虚無主義に陥るしか道はないのか。

 

 

李光洙/香山光郎(日本名)』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%89%E6%B4%99

 

その答えを探すべく、一部の朝鮮知識人は、この「日本臣民化」政策を通じ、「大東亜共栄圏」「聖戦完遂」の道に、自らを投げ出すことによって、自己の“存在”を見出そうとした。かつての民族運動指導者の一人であり、朝鮮近代文学の先鋒であった李光洙(イ・グァンス)は、香山光郎と「創氏改名」し、1940年以後になると、日記も歌日記といってよいほど「和歌」に満ちしかもその大半が、「大君の御恵みうけし」とか「天日子(あまつひこ)は現神なれば」とかいった天皇礼賛の枕詞で始まっていたという(田中英光「朝鮮の作家」、「酔いどれ船」。『田中英光全集』第二巻)

 

 

『満州国軍軍官学校の日系将校枠の受験許可を特別(年齢制限により受験資格がないため)に求める血書による嘆願書を提出(1939年3月31日付『満洲新聞』)。』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%AD%A3%E7%85%95

 

また朴正熙(パク・チョンヒ)こと、クーデターで後の韓国大統領となった彼についても、満州軍官学校を出て日本の陸軍士官学校に留学、そして関東軍に配属されていた陸軍中尉高木正雄その人であり、日本帝国主義の中国侵略と朝鮮民衆の抗日独立運動の弾圧に自らを投じていた(蘭星会『満州国軍』)。

 

━これらの事柄も、一人ひとりにとっては、陰鬱な挫折・屈折をともなった実存であったに違いない。そして、この陰惨さに満ちた実存は、朝鮮民衆に対する、また歴史と伝統をおった朝鮮民族の一人である自分自身に対する“裏切り”であっただけに、一層じめじめした、鬱積した不満と苦汁にみちたものであった━やがて朝鮮が解放されたとき、“親日分子”として指弾され、指弾されればされるほど、正当な民族的立場に立ち返ることを「意固地に」拒否せざる得ないような複雑な後遺症を持ち、日本帝国主義の朝鮮に対する植民地支配は、とても複雑な、たんなる物的損害以上に難しい問題を残したのです。

 

しかし、逆にいうと朝鮮人の大多数は、このような屈服と屈折への衝動を固く拒む心の中のたたかいを通じて、強靭な民族意識を持ちこたえて、解放の日を目指していた。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

ブログランキングに参加しております。

皆さまのご支援が頂けるとありがたいです

(下のバナーをクリック)

 

にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村