前回の記事

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その3(植民地支配に無反省な日本)‐

 

 

・在日朝鮮人の歴史

 

上記で日韓会談のおさらいを終え、今回はいよいよタイトルにもある「在日朝鮮人」に関する記事を書いていこうと思います。今までも、色々な記事にて在日コリアンに関するニュースや内容のものを書かせていただきましたが、具体的なルーツについては、これが最初になります。

 

まず、日本の朝鮮半島への植民地支配がどのようなものだったか。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐

 

半島全域に軍隊や警察を置かれ、個々人の自由は抑制され、体制に抗う人々はすべて強権のもとで処断した。その中で、朝鮮人の歴史や民族的主体性を否定され、生活においても宗主国日本の「供給基地」として、彼らの暮らしはボロボロに破壊された。さらに、戦争の末期ごろには、戦時徴用による強制労働や、日本人との「同化」政策が実行されたことも忘れてはならない。

 

では、その詳細について見ていきます。

 

 

・民族性抹殺政策

 

エグい小題目ですが、実際に彼らはおこないました。

 

日本帝国主義朝鮮に対する兵站基地化ファッショ的弾圧に抗して、朝鮮国内でも朝鮮の民族的自主性を守ろうとする動きが、困難な中にも、さまざまに続けられた。

 

張志暎(チャン・ジヨン)らによってつくられた『朝鮮語研究会』は、1931年『朝鮮語学会』と名を変え、1933年には『ハングル綴字法統一案』を発表。さらに、1936年から朝鮮語辞典の編纂にはじめ、国語=朝鮮語の発展につとめた。

 

また李丙燾(イ・ビョンド)らの学者たちは、1934年から『震檀学会』(チンダンハッペ)という朝鮮史研究の団体をつくり、『震檀学報』(チンダンハッポ)を発行して、朝鮮史の研究を独自に進めました。

 

 

『東亜日報1936年8月25日付2面の紙面画像』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E5%9F%BA%E7%A6%8E

 

1936年8月ベルリンオリンピックでは孫基禎(ソン・ギジョン)選手が、マラソンに優勝し、南昇竜(ナム・スンニョン)第3位という快挙を成し遂げた。これに朝鮮人たちは、両選手に朝鮮の誇りを感じると同時に、翩翻(へんぽん)と上がる「日の丸」に、こみ上げる悔しさを味わいました。

 

そんな中、画像にもあるように『東亜日報』『朝鮮中央日報』は、孫選手の写真をのせたが、ユニフォームの「日の丸」を消してこれを報道しました。

 

『東亜日報』は即刻、無期停刊されたが、この“日章旗抹消事件”も抑えることのできない朝鮮人の「抗日精神」のあらわれでした。

 

こうした動きに対し、侵略戦争の後方基地として朝鮮支配を強めるために、日本帝国主義は戦争を拡大するにつれて、朝鮮の民族的自主性の拠り所になるすべてのものを抹殺しようとし、その同化主義政策は絶頂に達した。

 

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『南次郎』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AC%A1%E9%83%8E

 

1936年8月、関東軍の司令官であった陸軍大将南次郎朝鮮総督(第8代)として赴任し、『重要産業統制令』を公布して、戦時経済の確立のため、朝鮮経済の再編成を強行したが、それは思想統制にも及び、「朝鮮思想犯保護観察令」をしいて、朝鮮人の一切の独立運動はもちろんのこと、民族的自主性を擁護するどんな動きでも、その息の根を止めようとした。

 

日中戦争がはじまると、朝鮮人を全面的に侵略戦争に動員するために、朝鮮人の「皇国臣民化」政策を強行しました。

 

 

『宮城遙拝』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%81%A5%E6%8B%9D

 

また、朝鮮人に対する志願兵制度を実施し、朝鮮教育令の改定により学校における朝鮮語教育・使用を禁止し、また『皇国臣民ノ誓ヒ』を制定。

 

その詳細については、以下の通りです。

 

一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス、二、私共ハ心ヲ合セテ天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス、三、私共ハ忍苦鍛錬シテ立派ナ強イ国民ニナリマス━

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 249頁より

 

このような文言が、学校ではもちろんのこと、役所・会社・銀行・工場・商店・映画館など、およそ人の集まるところでは、どこでも繰り返し唱えさせました。さらにそれを、新聞・雑誌にもたえず掲載させた。そのほか神社参拝・宮城(皇居)遙拝・日の丸掲揚・正午の黙禱(もくとう)・国民服と戦闘帽の着用など、おどろくべき形式主義が、日本官憲の強権を後ろ盾に押し付けられ、朝鮮人の「日本臣民化」をはかった。

 

 

『当時の宗氏改名の届け出用紙』 ※コピー 

 

(在日コリアンの友人提供)

 

しかし、日本帝国主義はこれでも満足せず、1939年11月には、朝鮮には固有の姓名を日本式に変えさせる、いわゆる『創氏改名』を断行。1940年代に入ると『東亜日報』『朝鮮日報』など、朝鮮語の新聞『文章』『人文評論』を含め、ハングルを用いた文芸雑誌をすべて廃刊に追いやった。そして一方では、『国民総力連盟』をつくり、各行政単位に「愛国班」「警防団」を組織させ、連座制(連帯責任)で朝鮮人を相互に監視させるとともに、「臨戦報国団」などを通じて、親日的な世論を強制的に喚起させ、戦争協力を謳わせた。

 

1942年には、朝鮮語学会を解散させ、独立運動をしたといってその幹部を逮捕・投獄し、李允宰(イ・ユンジェ)らは獄死した。またこの年に、『震檀学会』(チンダンハッペ)も活動を中止させられました。

 

次回は、徴兵・徴発・強制連行についてお話します。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

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