前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐
・「朝鮮全土」に拡大する義兵運動
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 188頁より
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その13(ころして、おかして、やきましたとさ)‐
先の明成皇后(閔妃)暗殺につぎ、日本による植民地化が「目前」と迫る『日露戦争』において、朝鮮民衆の反日義兵闘争は再び活発になりまじめていた。
まずは、江原道原州<ウォンジュ>での、元容八<ウォンヨンパㇽ>義兵部隊の蜂起をはじめとして、1905年には、江原<カンウォン>・忠清<チュンチョン>・京畿<キョンギ>・慶尚<キョンサン>北の一帯に、義兵の蜂起が相次いだ。
『朝鮮八道』 (Wikiより) ※文字は筆者註
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%AB%E9%81%93
※第一次日韓協約(協定) https://www.unamwiki.org/w/%EC%A0%9C1%EC%B0%A8_%ED%95%9C%EC%9D%BC%ED%98%91%EC%A0%95(%EC%A0%84%EB%AC%B8)
※第二次日韓協約(乙巳保護条約) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%84%EC%82%AC%EC%A1%B0%EC%95%BD
※第三次日韓協約(韓日新協約) http://m.blog.daum.net/dsgim2/12737616?tp_nil_a=2
『第二次日韓協約』にあたる、大韓帝国を日本の「保護国」とする条約締結が強要されるや、それを契機として、義兵闘争はいよいよ全国的規模で、本格的に再燃しはじめるようになります。
※衛正斥邪派<ウィジョンチョッサパ>について
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その7(開化派と甲申政変)‐
『衛正斥邪思想』にもとづいた老儒生たちの「条約」に反対する「上疏(じょうそ=事情や意見を書いた書状を主君・上官などに差し出すこと)」や、憂国の憤死は、それ自体として日本の侵略に対する有効な反撃とは必ずしもなりえなかった。
しかし、侵略と、それに手を貸した李完用らの売国的官僚、いわゆる『乙巳五賊』(乙巳保護条約に賛成してしまった5人の大臣を指す)への、全民衆の憤りをますます高め、反日蜂起を促すキッカケとなった。
『대한제국의 매국노들<大韓帝国の売国奴たち>』 ※翻訳文字は筆者註
https://ebackman.tistory.com/517
首都の市民や学生たちは、撤市(承認の抗議閉店)・同盟休校などで、その意思を表明しました。
1906年に入って、忠清南道・全羅道に活躍した、閔宗植<ミンジョンシッ>・崔益鉉<チェ・イㇰチャン>らの義兵蜂起は、日本軍隊の武力弾圧の前に後退を余儀なくされた。
儒生に率いられたこれらの蜂起は、なお農民大衆との結合が弱く、軍事上・戦術上の弱点もぬぐいきれていなかった。しかし、この二つの蜂起は、その後急速に拡大し、継続する義兵の全国的蜂起の狼煙(のろし)であった。
同じころ、慶尚北道で運動を展開しはじめた平民出身の申乭石<シントㇽソッ>に日着られる義兵部隊は、「反侵略」と同時に「反封建」の要求を結合させ、農民大衆との結びつきを深めるなかで、機動的な「ゲリラ戦術」を駆使し、闘争を長期にわたって持続させた。
このように、義兵闘争の発展した「新たな段階」を示す芽が、すでにあらわれていました。
『군대 해산<軍隊解散>』(韓国民族文化大百科事典より)
http://encykorea.aks.ac.kr/Contents/Index?contents_id=E0006598
1907年8月から9月にかけ、日本がおこなった「韓国軍隊の解散」は、これに反対する朝鮮軍人の蜂起をうながし、これまでの義兵闘争の人たちと結合させ、運動全体のパラダイムシフトを進める契機となった。
同年8月1日、解散のために結集させられた在漢城(現ソウル)の各部隊兵士たちは、日本の一方的要求に対して暴動をおこし、武器を奪って、激しい市街戦を敢行した。
首都における「軍人たちの蜂起」は、解散を控えた地方の部隊にも波及させ、兵士らは相次いで決起し、既存の義兵に合流します。以後、義兵闘争は1907年段階で「朝鮮全土」に拡大し、それとともに運動は質的にも成長を遂げることになります。
『朝鮮末期における義兵たちの活動図』(明成皇后暗殺1905年~第三次日韓協約締結1907年まで) ※義兵長人物名の翻訳文字は筆者註
義兵蜂起は拡大すると同時に、「相互に連携」を強めていき、一時は全国的な連合を見せはじめた。1907年末、李麒栄<イイニョン>を『一三道義兵総大将』として漢城(現ソウル)進撃を企てたことは、その戦略に妥当性を欠き不成功に終わったが、義兵の「全国的同盟」を示しています。
さらに重要なことは、義兵の拡大が「より広範な大衆参加」を意味し、これを基礎に多くの「平民出身の義兵指導者」が生まれたことです。1908年における義兵闘争の最高揚期に、慶尚北道一帯で活躍した申乭石<シントㇽソッ>部隊、黄海・京畿道一帯の金秀敏<キムスミン>部隊、そして咸鏡南道一帯で活動した鉱山労働者出身の洪範図<ホンボンド>の率いる部隊などは、その典型です。
彼らの部隊は、大衆と深く結びついて分散した小部隊による、有効なゲリラ戦を展開することにより、義兵部隊のなかでも「最強の勢力」を形成していた。それは農民大衆が、衛正斥邪派思想の枠をこえて、新たに前進しようとする過程に他なりませんでした。
・対する日本の行動は・・・
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 196頁より
上述の義兵運動に、日本は圧倒的に優勢な近代兵器を持つ正規軍を動員して、鎮圧にあたった。
特に、1907年以降は、それまでの「大討伐方式」から、小部隊編成の「ゲリラ掃討方式」に転換し、徹底的な弾圧をおこなった。このなかで「討伐」の対象は、もはや「すべての朝鮮人民」でした。
数々の村を焼き払い、無差別な殺戮を繰り返し、併合前年にあたる1909年9月から約2ヵ月間、大量の兵力をつぎこみ全羅道一帯に「南韓大討伐作戦」を繰り広げた。
これを境に、義兵の蜂起はしだいに退潮にむかいますが、その「根絶」などということはできるはずもありませんでした。1910年以後、義兵残存部隊はしだいに北の国境地帯に移っていったが、それは再起のための「根拠地の移動」、義兵運動から新たな独立軍運動への転換期でもありました。
・闘争の総括
『同』 181頁より
この義兵運動は、日本の侵略と支配に「直接に大きな打撃」を与えたばかりでなく、他の形態の抗日運動にも積極的な影響を与えた。そしてなによりも、日本の朝鮮支配はいつもこのような「朝鮮民衆の全面的な反抗の脅威」にさらされ、軍事的・暴力的な支配を必要不可欠な要素とした。
結果、それは「日本帝国主義の矛盾」をますます激化させ、その脆弱さを作り出すことになります。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
<ツイッター>
【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】
https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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