前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その24(『三・一運動』弾圧と帝国主義の揺らぎ)‐

 

 

・受け継がれる「三・一精神」 

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 219頁より

 

『三・一独立運動』は、朝鮮民族あげての抗日運動でした。

 

この運動自体は、日本帝国主義の砲火によって、鎮圧されてしまったが、その後における「運動の精神」は、ながく朝鮮民衆の中に生き続け、独立闘争は絶え間なくつづいた。

 

国は「植民地」とされ、民族の「主権」は奪われたが、朝鮮民族の歴史の営みが「絶え滅ぼされてしまった」わけでは決してない。『朝鮮の歴史』は、幾度にわたる民族解放闘争に体現され、日々新しいページを書き続けた。

 

三・一運動以後、朝鮮では労働運動農民運動などの大衆活動がおこり、社会主義の思想が浸透し、民族運動は、それまでのブルジョア民族主義的立場からする活動のほかに、次第にマルクス・レーニン主義の理論にもとづく大衆運動主流を占めてきた。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その22(『三・一独立運動』前夜 蔓延る帝国の矛盾)‐

 

 

『中国・間島地方』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6

 

そして、1920年代を経て、1930年代に入ると、朝鮮と境を接する中国の東北地方『間島地方<カンドチバン>』(朝鮮・中国の国境地帯で、中国側では延辺と呼んでいる)を主な舞台として、抗日パルチザン闘争が組織的に活動をはじめ、広大な「民族統一戦線の結成」を呼びかけるとともに、その実現につとめ、最終的な「朝鮮の解放」を目指し、新しい祖国をどうつくるのかそのプログラムをも明らかにするようになった。

 

それは、朝鮮人民が「自らの力」を信じ、自分の運命を切り開くものは「自分自身」であり、己の主体的な力量を総結集して、朝鮮の解放を実現し、新しい国家建設をやりとげようとした点で、朝鮮の民族解放闘争の長い歴史と伝統を受け継ぐと同時に、それを質的に「新しい段階」へ高めようとした。

 

 

・『武断統治』から『文化政治』への移行

 

※日本の「朝鮮支配の系譜」 右の文字と黒線は筆者註

 

『資料:歴代韓国統監・朝鮮総督』

 

http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/kougi/kindai_kyozai/SSoutoku.htm

 

日本帝国主義は、自らが保有する「最大の植民地」である朝鮮で、全民族的な独立運動に直面し、大きな打撃をうけた。

 

そして、従来の「剥き出しの軍事的支配」である『武断統治』の「転換」をうたい、いわゆる『文化政治』なるものを主張し、表面上において支配を「緩和」したかのようであったが、これは朝鮮人のなかのごく一部の大地主や大金持ちを懐柔して、「親日分子」に育て上げ、巧妙な分断統治でもって、朝鮮の民族運動を「分裂させよう」と躍起になった。

 

 

『第三代朝鮮総督 斎藤実』 

(사이토 마코토 총독의 교육시책<斎藤実総督の教育施策>より)

 

https://m.blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=manushya&logNo=130135605754&proxyReferer=http%3A%2F%2Fwww.google.co.jp%2Furl%3Fsa%3Di%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dimages%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwjypN_0r5flAhVoGaYKHbPTARoQjhx6BAgBEAI%26url%3Dhttp%253A%252F%252Fm.blog.naver.com%252Fmanushya%252F130135605754%26psig%3DAOvVaw2zpNQjuQmXkEH1BrxWJXxp%26ust%3D1570991877047878

 

その「提唱者」である、三代目朝鮮総督斎藤実を筆頭に、植民地政策は今にも増して悪辣なものと化した。

 

独立運動の「ベース」を崩すため、朝鮮の民族精神・民族文化を「抹殺」しようとする試みが、さまざまな方面から実践・強化され、経済的には朝鮮を日本資本主義の「商品販売市場」として独占し、一方では「食料・原料(直接材料)の供給地」に変えようとした。

 

つまり、『完璧な植民地』として、当地における「独自性」を一切無視する政策を、いよいよ強行することを意味しました。

 

‐東アジアの今とこれから その22(満州事変、日中十五年戦争勃発、裏切者続々と現る)‐

 

さらに、世界恐慌後1930年代以降になると、中国への侵略戦争の拡大につれ、朝鮮を日本の「兵站基地」とする動きも出てきた。そして、恐慌によって打撃を受けた日本の独占資本は、朝鮮を莫大な「超過利潤」を手に入れることができる「資本の投下地」として、朝鮮への「大規模進出」を決定した。

 

そして、1930年代の後半から1940年代前半にかけて、「アジア太平洋戦争の拡大」と同時に、朝鮮に対する植民地政策は、「その頂点」に達することになる。

 

このような動きのなかで、朝鮮民衆の生活は、耐え難い苦しみに陥れられた。しかし、大日本帝国の「朝鮮植民地諸作の強化」は、日本帝国主義の「強さ」を物語るものでなく、逆に「弱さ」のあらわれに他ならなかった。

 

戦争の泥沼化と、極限にまで進められた植民地政策の深刻化によって、大日本帝国と朝鮮人民の「民族的矛盾」は、ますます鋭くなり、また朝鮮民衆は、日本帝国主義の「侵略」に反対して、たたかう中国をはじめとする北東アジア諸民族の抗日救国闘争や、世界の反ファシズム勢力との連帯を強めることになった。

 

そして、日本帝国主義は次第に追い詰められていき、ついに1945年の敗北を余儀なくされた。

 

ここで理解しておかなくてはならないのは、いわゆる『終戦の日』、つまるところの『大日本帝国敗北の日』は、『朝鮮民族の解放の日(光復節<クワァンボッチョル>)』であり、それは南北に変わりなく、日本帝国主義の絶え間ない弾圧と無数の犠牲にも屈せず、粘り強くたたかい続けられた「朝鮮の民族解放闘争」が、実を結んだ日でした。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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