前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その27(産米増殖計画と大工場建設 進む「経済植民地化」)‐

 

 

・朝鮮人民の状態

 

 

『朝鮮総督府庁舎』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C

 

「(産米増殖計画は)農産の飛躍的増殖を結果したが、それと同時に、土地なき農民の飛躍的増殖にも亦(また)成功したのである。土地なき農民の斯(かか)る膨大な堆積は、反面に於ては土地所有の集積を意味する。水利組合事業がこの土地兼併の強力な促進作用を呈した」

 

(久間健一『朝鮮農政の課題』)

 

※()は筆者註

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 228頁より

 

このように、朝鮮総督府の役人すらいっているように、産米増殖計画計画を中心とした1920年代の日本帝国主義の朝鮮に対する植民地政策の結果、朝鮮民衆の生活状態は1910年代に比べて、いっそう悪化した。

 

当時、朝鮮の戸数・人口約80%「農業人口」で占められていたが、その農民が激しく零落させられた。1919年1932年朝鮮農民の階層別増減をみると、所有耕地の一部を自作し、他を小作させる中小の地主・自作・自作兼小作は全部減少し、耕地のすべてを小作させる地主と小作が増えている。

 

とりわけ自作兼小作は、この13年間約30万3000戸が減り小作農54万3000戸も増えて、154万6000戸になった。小作農の全農家戸数に占める割合も、37.6%から、52.7%に増加した。

 

※翻訳文字は筆者註

 

『일제 강점기 농민의 계층별 구성 도표(위)에서 자작이나 자소작농이 줄고 소작농이 늘어난 것을 알 수 있다. 이것은 1910년대의 토지 조사 사업과 1920년대의 산미 증식 계획으로 농민들이 토지를 상실하고 몰락하였음을 보여준다.<日帝植民地における(朝鮮)農民の階層別構成図表。自作や自小作兼業が減り、小作農が増えたことがわかる。これは1910年代の土地調査事業と1920年代の産米増殖計画による農民たちの土地喪失と没落したのと関連する>』 (ZUM学習百科Betaより) 

 

http://study.zum.com/book/13264

 

「農民の失った土地」は、主として日本人地主に集積された。

 

朝鮮農業は、地主が小作人から「現物の小作料を搾取」する半封建的な生産関係が支配的であり、それが日本の植民地体制に守られ、しかも日本の資本輸出は1920年代には、なお貧弱であり、朝鮮の民族資本の発達も阻害されていたから、この頃の工場工業のほとんど全部が「零細な中小工場」でした。

 

ゆえに、土地を失ったからといって、すぐ工場労働者になれるわけでもなく、膨大な過剰人口が農村にとどまらざるえなかった。その結果、農民は「一片の土地」にしがみ付いてでも生活する他なく、それが農業経営の零細化をもたらし、地主の小作料搾取を、ますます過酷なものとした。

 

1920年代末、朝鮮の小作農の「平均小作期間」は、わずか1ヵ年のものが70%、5ヵ年未満のものを合わせると96%に達し、小作農民は、土地に農民を縛り付けていた封建時代よりも、ずっと不安定な状態に陥れられた。

 

 

・「国外移住」か「火田民」か

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その21(どこに行っても地獄だらけの植民地生活)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その27(産米増殖計画と大工場建設 進む「経済植民地化」)‐

 

こうして、長年住み慣れた故郷をあとにして、日本や中国(満州)など国外に流浪・移住するか、「移住の資金」すらないものは、山林地帯に入って、火田民(気候も厳しい山岳地帯を転々としながら、焼き畑耕作によって生活する農民になるしかなかった。兼業火田民を入れると、その数は1926年9万4000戸から、1932年には15万6000戸に激増した。決して単なる原始農業の名残などではない)になるか、あるいは一家離散の悲運に立たされることになった。

 

 

・悪辣な植民地経営 暴虐な資本主義

 

一方、1930年ごろ「朝鮮の工場労働者」10万名を超え、それに鉱山労働者3万6000名運輸土木労働者8万1000名を加えると、労働者総数約22万名でした。━前述のように、農村が膨大な過剰人口の「貯水池」となっていたため、これら労働者階級の資金は、たえず食うや食わずの「貧農民たちの生活水準」によって決定され、とても食べていけない飢餓賃金が一般的でした。

 

そして、この低賃金を利用して、日本資本主義は朝鮮で本国(内地)よりも、ずっと低い製造原価(低材料費・低労務費)によって、「チート級の超過利潤」を獲得したのです。

 

また、日本の植民地下で、朝鮮の「民族資本の発展」は極度に妨げられた。

 

一例として、次の表からもわかるように、工場数は多くても『資本投下比率』では、全体の4.6%に過ぎない程度の工場が、大部分を占めていた。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 230頁より

 

1930年朝鮮人の工場で、その97%が5~49名の労働者を使用しており、100~199名の労働者を使用する工場12(0.7%)であり、200名以上使用のものは、わずか8(0.3%)にも満たなかった。

 

ごく一握りの「親日的な隷属資本」を除いて、大多数の民族資本家たちにとっては、日本の植民地支配のもとでは、自由競争はおろか、中世的な手工業を工場に変じた程度の零細企業の枠を出ることはできませんでした。

 

朝鮮民衆のこのような状態は、必然的にさまざまな大衆的組織運動を発展させざるにおかず、小作争議1920年の15件から、1930年には726件となり、労働争議1925年の55件(5700人参加)が、1930年には160件(1万8972人参加)に膨れ上がった。

 

そして、1920年には『朝鮮労働共済会<チョソンノドンコンジェフェ>』がつくられ、1922年には、これが『朝鮮労働連盟会<チョソンノノンヨンメンフェ>』となり、1924年には地方別・団体別の組織を統合して、『朝鮮労農総同盟<チョソンノノンチョントンメン>』が創立された。

 

さらに、翌1925年には『朝鮮共産党<チョソンコンサンダン>』も誕生した。━朝鮮の労働者や農民の直面した「階級的矛盾」は、日本帝国主義の植民地政策によって、不可避かつ、その重圧を倍加させていたから、格差の問題は、ただちに大日本帝国との「民族的矛盾」に結び付き、朝鮮の民族解放運動における労働者・農民の「階級的指導性」は、次第に強まっていく。

 

このような朝鮮人民の状態をまえに、「ブラジル移民計画」で有名な上塚議員が、以下のような報告を提出している。

 

 

『上塚司・衆議院議員』

 

http://www.amazonkoutakukai.com/conteudo.php?ident=25

 

「文化政治ということがありますが、文化どころではなく却って悪化政治となって、今や人民は一人として生活が出来ぬようになって来ました」

 

(上塚司ら衆議院議員による『朝鮮民情視察報告』1923年、

に収められている農民朴東洙<パクトンス>の発言)

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 同頁より

 

こうした怒り独立への希求は、朝鮮人にとって、いっそう止みがたいものとなった。

 

そのなかで、朴殷植<パクインシッ>は、『朝鮮の独立』はきっと達成され、朝鮮の『光復史』(=独立史)は将来かならず書かれると信じて、『韓国独立運動之血史』(1920年、上海で刊行)を執筆し、また申采浩<シンチェホ>鄭寅普<チョンインボ>らは、民族史学の確立につとめ、さらには国語(朝鮮語/韓国語)の研究に一生をささげた周時経の弟子たちによって、1921年『朝鮮語研究会』がつくられ、自国のことばを守り発展させるために活躍しました。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

<ツイッター>

 

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