前回の記事

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その17(併合末期の『愛国文化啓蒙運動』)‐

 

関係記事

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編7(李氏朝鮮→大韓帝国→日韓併合)‐

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その4(過去の歴史を振り返る)‐

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その5(徴兵・徴発・強制連行)‐

 

‐シリーズ 日韓会談と在日朝鮮人 その6(支配と同化が残したもの)‐

 

 

・当時からあった 朝鮮人の「併合待望論」

 

 

『1910년 8월 25일 한일 합병이 양국에서 조인되어 정식으로 선언되었다.<1910年8月25日 韓日併合が両国で調印され正式に宣言された>』

 

http://kcm.kr/dic_view.php?nid=38287

 

1910年8月22日、ついに日本は大韓帝国を「併合」した。

 

 

韓日併合を暗示した絵葉書(1909年発行)。日本人(右)が上から目線、朝鮮人は下から見上げている(民団ホームページより)

 

http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=0&newsid=22852

 

大日本帝国は、この行為について「韓国の皇帝が申し出、日本の天皇がこれを受け入れた」という「形式」を取らせた。

 

 

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E6%9D%A1%E7%B4%84

 

朝鮮併合条約の調印が終わった夜、統監寺内正毅は祝盃をあげて「小見川、加藤、小西(豊臣秀吉の朝鮮侵略時における武将)が世にあらば、今宵の月を如何に見らむ」とうたい、宴に侍していた小松緑は「大閻を地下より起し見せばやな、高麗やま高く登る日の丸」と唱和した。

 

これは併合当時の正直な気持ちであった。

 

しかも、こういう歌をよんだことを、小松は後々まで自慢話にし、大いばりでその著「明治史実、外交秘録」(一九二七年)に書いている。こまつは明治三九年に伊藤博文が初代統監として朝鮮に赴任したときに同行し、そののち大正五年まで、書記官・参与官・外務部長・外事局長・中枢院書記官長などの職にいて、朝鮮併合・朝鮮統治に参画したひとである。

 

その人間がこういう恐るべき歌を自慢話にしていた点に、当時の支配者の意識をうかがうことができる。

 

※()は筆者註

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 10頁より

 

また日露戦争中、日本の大陸浪人である内田良平や、ごく少数の朝鮮の売国者李容九<イヨング>、宋秉畯<ソンビョンジュン>らにつくらせた『一進会』を利用して、この併合が「朝鮮人の希望」であったかのように見せかけた。

 

 

『一進会メンバー:内田良平・李容九・宋秉畯』

 

※内田良平 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%EB%A5%99%EB%82%AD%EC%9D%B8

 

※李容九  https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%9A%A9%EA%B5%AC

 

※宋秉畯 https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%86%A1%EB%B3%91%EC%A4%80

 

しかし、「事実はまったく逆」である。

 

すでに見てきたように、日露戦争後に「列強の承認」を得て、朝鮮を軍事的かつ政治的にも支配し、半島全土を「軍事監獄化」することによって、朝鮮人民の反日義兵闘争を「鎮圧」して、ようやく「併合」は強行されるのです。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その16(反植民地闘争を繰り広げた義兵たち)‐

 

この時点で「ハイ論破♪」ですが、韓国併合後もなお、朝鮮民衆の抗日闘争を完全におさえることはできませんでした。

 

 

・朝鮮国としての「最期」の抗日行動

 

 

『ハルビン駅で暗殺される伊藤博文』

 

https://thestrategybridge.org/the-bridge/2017/10/17/fateful-failure-the-lost-opportunity-to-terminate-the-kim-il-sung-dynasty

 

「朝鮮に於てすら諫臣絶へず出て、伊藤候に投石するもの絶へず出て居れり、憂世の士少なからずと見ゆ、ドノ国の歴史を読むも吾人(我ら)は遂に憂国愛国の士、義憤慷慨(ぎふんこうがい=正義に外れたことなどを、激しく憤り嘆くこと)の烈士の跡を絶てる時代を見出す能(あた)はざるなり」

 

日本の社会主義者雑誌 『光』1906年7月30日 

「革命の歴史が与ふる教訓」より

 

‐東アジアの今とこれから その7(伊藤博文暗殺)‐

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 200頁より

 

これまで朝鮮侵略の先頭にたってきた伊藤博文が、1909年10月ロシア利権の東清鉄道・ハルビン駅で暗殺され、あるいは韓国の外交顧問であったアメリカ人のスティーブンスが、サンフランシスコ田明雲<チョンミョンウン>らに射殺されます(1908年3月)

 

 

『大韓帝国外交顧問 ダーハム・W・スティーブンス』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%BBW%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%B9

 

このように、朝鮮の民衆にとって、今まさに「自分たちの国」がなくなろうとする間際、幾多における決死の反日行動を取り続けてきた。

 

「植民地」として併合されれば、生活は宗主国に牛耳られ、人々の暮らしや、今まで「当たり前のようにあった」庶民たちの関係も、「全てが破壊される」わけであって、決して容認できるものではありません。

 

 

・「ひそかに」行われた 併合条約調印式

 

 

岡田三郎助筆『寺内正毅肖像画』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%86%85%E6%AD%A3%E6%AF%85

 

朝鮮人民の、数々の「命をかけた抵抗」がゆえに、韓国併合条約は「極秘のうちに準備」され、いざ調印式の時には、首都漢城(現ソウル)のまわりに、日本軍がこっそりと集結させられ、市内では憲兵が巡回し、二人によって話をしていても尋問を受けるという「厳戒態勢」が敷かれていました。

 

このように、調印はクーデターにも似たやり方で行われたといってよく、とても「正常な国家間の条約」などとは、到底いえません。

 

 

当時1910年8月30日付の『東京朝日新聞』(第三面)より

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

 

同紙 第一面(広告その1)より

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

 

同紙 第一面(広告その2)より

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

ひるがえって、日本では「韓国併合」が公表された8月29日東京市内では軒並み国旗が掲揚され、店を閉じて祝杯をあげた人々が、記念の花電車に嬉々として乗り込む姿が、あちこちでみられた。

 

 

『「朝鮮人を我が日本国民とし」云々』(1910年8月10日 『国民第一新聞』第一面より)

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

諸新聞は併合を祝し、社説では朝鮮を「指導啓発」する日本国民の「責任」を自覚せよと訴えた。

 

それどころか、朝鮮人には「平和と秩序と進歩」が「保障」されたのだから、むしろ「植民地化を喜ぶべきだ」とさえ主張した。

 

 

・日韓併合における社会主義者の立場

 

 

『幸徳秋水』 (光文社古典新訳文庫より)

 

http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/12/006557.html

 

‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観①)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観②)‐

 

‐明治時代の朝鮮観その5(社会主義者・人道主義者の朝鮮観③)‐

 

 

 

廿世紀之怪物 帝国主義(『山星書店 初版本 和本 古地図 史料他 在庫販売目録』より)

http://shohambon.yamabosi.jp/?p=5979

 

「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的欲望の達せんが為めに、漫に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼中には人種の別なく、地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘ふべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、軍国主義也、我等の敵は露国人に非ず、而(しか)して亦(また)実に今の愛国主義也、軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等の共通の敵也、世界万国の社会主義者が共通の敵也、諸君と我等と全世界の社会主義者は、此(これ)共通の敵に向かって、勇悍(勇敢)なる戦闘を成さゞる可からず、」

 

『与露国社会党書』より

 

「朝野(官民)戦争の為めに狂さざるなく、多数国民の眠は之が為めに昧み、多数国民の耳は之が為めに聾(ろう)する<=耳が聞こえなくなる>の時」

 

(『週刊平民』一九〇四、四、一七)

 

「戦争の目的は、殖民地及び新市場の拡張に在らん、殖民地及び新市場拡張の目的は果たして何れに在りや、国民多数の貧困は之が為に除かるべき乎」

 

「日本が朝鮮、満州、西比利を取れりと仮定せよ、之が福利を受くる者は、唯(た)だ政治家、資本家の階級ならんのみ、何の地位なく、些の資本なき多数労働者は、能(よ)く何事を為し得べき乎」

 

「否(い)な戦争は常に政治家、資本家の為めに戦はるゝのみ、領土や市場は常に政治家、資本家の為に開かるゝのみ、多数国民、多数労働者、多数貧者の与り知る所にあらざる也」

 

(『週刊平民』、一九〇四、八、二一「社会党の戦争観」)

 

‐東アジアの今とこれから その3(帝国主義は今も生きている)‐

 

かつて、日露戦争に際して反戦論を唱えた日本の少数の社会主義者たちの中には、「朝鮮に対する侵略」を批判し、朝鮮を「敬愛すべし」と訴え、植民地的野心は「平民階級」にとって「有害無益」だと主張した人々がいました。

 

さらには、韓国の外交権を完全に奪い、統監府を設置した『第二次日韓協約(乙巳保護条約)』に反対し、「朝鮮の独立を守れ」とする有志の決議をおこない、これを国際的にも訴えようともした(1907年)。

 

‐東アジアの今とこれから その10(大逆事件と明治社会主義者の総括)‐

 

 

『大逆事件』

(幸徳秋水ら以下12名は1911年1月 同罪状にて処刑される)

 

https://shuusui.exblog.jp/13933382/

 

しかし、上記の「幸徳事件」により、これらの運動もまったく抑圧されてしまっていた1910年には、「朝鮮の植民地化」について一切批判はあらわれなかった。

 

それどころか、わずかに社会主義的新聞として出されていた『週刊社会新聞』も、『日韓併合と我責任』と題した社説を掲げ、「併合を容認」した上で、同化政策の重要性を主張するありさまでした。

 

日韓併合は事実となつた。之が可否を云々する時ではない。今日の急務は我新朝鮮を治むるに当り高妙なる手段方法を用いることである。彼等が我に同化するとか仕ないとかは問題ではない。朝鮮人に是非共与へなければならない物が一つある。此一を与えざれば彼等は我に禍するかも知れぬ。厄介者となるかも知れない。其一とは何であるか他なし日本帝国臣民としての独立心である

 

抑も朝鮮は我よりも古い歴史を持って居る、古き文明国である。然るに数千年の間確固たる独立を為し得なかったのは国人が此独立心を欠いて居たからである。土台のない柱の如くグラく(グラグラ)者であった。

 

支那に屈し日本に底頭し露国に親しみ誠に早や生気地(意気地)のない歴史斗り(然り)である。これが終に今日の併合となつた運命である。

 

然らば日本たる者は非常なる誠意を以て朝鮮人を養成して立派なる日本帝国臣民と為すにある。若しも此一事を日本が政事教育を以つて将た社会的待遇と経済的地位を与ふることに由つて成し遂げなかつたらば、朝鮮人は我厄介者で或は禍本となるかも知れない。

 

彼等が我為めにならないのみならず、朝鮮人其者に取つても大なる不幸である。彼等は今ほ尚ほ未開の人民である指導教育は我責任である。

 

日本帝国は拡張された。千三百万の人民は一時に増加した。若(も)し彼等新民をして真の独立を貴ぶ帝国臣民たるの義務と責任を尽す者とならず過去の如き者であつたならば、拡張して却つて(かえって)強くならない結果となるの恐れがある。此れ実に重大問題である。為政者は固より全日本国民は個人とし社会団体として彼等を誘導教育し新同胞として立派にする必要がある。是れが吾輩の併合に対しての所感である。

 

‐東アジアの今とこれから その11(朝鮮国黒々と・・・)‐

 

反対に、石川啄木は以下のような詩文を書いた。

 

 

石川啄木(Wikiより)

 

https://en.wikipedia.org/wiki/Takuboku_Ishikawa

 

地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く

 

「啄木の批判は1910年9月9日に作った1首の歌でなされた」『石川啄木韓国併合批判の歌 六首』(近藤典彦氏・執筆)より

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

「この歌は石川啄木の『朝鮮併合』批判の歌として有名だ。日本国政府は『韓国』という呼び名も『朝鮮国』と言う呼び名も拒否して樺太や台湾と同じく朝鮮としたが啄木は『朝鮮国』としている」

 

「今から100年前の1910年8月29日の官報に韓国『併合』が公布された。啄木は『朝鮮併合』を1910年8月29日直後の時点でメディアを通して批判した唯一の日本人だ。9月9日に執筆を始めたと思われる『時代閉塞の現状』は強権に真っ向から闘いを挑むもので朝日新聞への掲載を断られた」

 

『石川啄木韓国併合批判の歌 五首』(『大津留公彦のブログ2』)より

 

http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8bef.html

 

文字通り、朝鮮の「併合」はまた、日本の社会主義者たちの「冬の時代」の到来でもありました。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・『石川啄木韓国併合批判の歌 六首』(近藤典彦氏・執筆)記事

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

・大津留公彦のブログ2 『石川啄木韓国併合批判の歌 五首』記事

 

http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-8bef.html

 

 

<ツイッター>

 

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