秋水と同様の立場から、日本の侵略政策に反対し、朝鮮との連帯をもとめるものがいました。


それぞれ論陣をはって政府を攻撃しましたが、やがて東京社会主義有志会の名で『対韓決議』を表明しました。「吾人(我々)は朝鮮人民の自由・独立・自治の権利を尊重し、これにたいする帝国主義的政策は、万国平民階級共通の利益に反対するものと認む。故に日本政府は、朝鮮の独立を保障すべき言葉に忠実ならんことを望む。一九○七年(明治四○年)七月二十一日、東京社会主義有志会」


ここには連帯の意識が明白に示されております。


幸徳秋水らの社会主義者は明治43年5月大逆事件によって検挙され、翌年1月、秋水ら12名が死刑に処せられました。これは明らかにでっち上げでした。秋水らが捕らわれた三ヵ月後には韓国併合条約がつくられ、朝鮮(当時は大韓帝国)という国は失われました。


秋水らの存在は朝鮮併合の妨げになるので抹殺されたとみて良いでしょう。



政府の独裁権力により、秋水は処刑されましたが、その思想は起伏はありながらも日本人の中に受け継がれました。労働運動・社会運動・文化運動のなかで、日本の朝鮮支配に反対し、朝鮮人の解放運動を支持し、日本と朝鮮の連帯を唱えるものは絶えませんでした。


たとえば文学作品のなかでは、古くは石川啄木の歌に「地図の上 朝鮮国にくろぐろと 墨をぬりつつ秋風をきく」というのがあり、朝鮮併合を肌さむいものと感じ取っています。


また中西伊之助『赫土(きゃくど)に芽ぐむもの』(1922年)日本統治下の朝鮮農民の悲惨な姿と朝鮮で搾取される日本人労働者の姿とをえがき、共通の敵に対する怒りを表明しています。


槇村浩の『間島パルチザンの歌』(1930年)になると、独立運動に挺身する朝鮮人への深い共感が示され、中野重治の『雨の降る品川駅』では朝鮮人は日本の労働者の心からの同志とみなされています。


このように連帯意識は時とともに成長しています。


酷い弾圧の下で、ともに苦しみ、ともに解放をめざす立場から、朝鮮人への信頼、その戦いへの共感が育っています。



社会主義者的立場とは別に、人道主義的立場から日本の朝鮮支配を批判し、朝鮮人の独立運動を支持し、さらに朝鮮人のすぐれた芸術的才能をたたえたものがいました。


柳宗悦です。


彼は朝鮮芸術の独自の美しさにうたれ、それを生み育てた朝鮮人に心から感嘆し、朝鮮の芸術作品の保存のために「朝鮮民族美術館」を設立すると同時に、誇るべき芸術品を生みだした朝鮮人に対する日本の同化政策・弾圧政策を批判し「日本にとっての兄弟である朝鮮は日本の奴隷であってはならぬ。それは朝鮮の不名誉であるよりも日本にとって恥辱の恥辱である」と言いました。


少しうがった見方をすると、日本が「兄」で朝鮮が「弟」なのか、はたまた朝鮮が「兄」で日本が「弟」なのか、すくなからず疑念は残りますが、いずれにせよ彼の朝鮮芸術、朝鮮人に対する称賛は、三・一運動における朝鮮人の愛国的たたかいへの共感、それを弾圧する日本政府への抗議とむすびついて発せられました。


朝鮮の芸術品を作者たる朝鮮人と切り離し、単に物としてだけ愛好するのが日本人の傾向ですが、彼は朝鮮の芸術の独創的な美を通じて作者たる朝鮮民族を発見しました。



以上のように正しい朝鮮観を持った日本人もいました。


まだまだよく知られていない事実はあるに違いありませんが、今日および将来に生かすべきものを過去の日本人はもっていました。しかし問題は、こういう人々が少数で、大多数のものは誤った朝鮮観に左右されていた、ということです。日本人の文学作品の上で、朝鮮人あるいは朝鮮問題を主題としたものは極めて乏しい。また明治・大正・昭和を通じて多くの文学者が朝鮮を旅行し、旅行記を書いていますが、そのほとんど全部が朝鮮の風景や古跡の礼讃にとどまり、朝鮮人の姿はまるでみえていません。


朝鮮人は関心の対象にならなかったのです。


これは日本人が朝鮮以外の外国を旅行したときの記録とはちがうように見えますが、朝鮮人や朝鮮のことは問題とするに足りないという考えが無意識のうちにあった為だと考えられましょう。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房