前回の記事

 

‐東アジアの今とこれから その9(中国革命との連帯)‐

 

 

 

幸徳秋水(光文社古典新訳文庫より)

http://www.kotensinyaku.jp/archives/2015/12/006557.html

 

以前で明治期社会主義者反帝、反戦、反侵略戦争の積極的な面だけを述べてきました。

 

ここで、その弱点・限界を含めてお話していこうと思います。

 

①明治期社会主義者の帝国主義侵略に反対する連帯運動は、新聞、雑誌、講演会、研究会からロシアの捕虜兵士、日本の入営兵士への訴えまで精力的かつ勇敢に展開されたが、いずれも大衆的な運動にはならなかった。それは結局、啓蒙宣伝活動であり、一部先覚者の思想運動であったことを意味する

 

②それは労働者階級の成長の未成熟という主体的条件とも関係がありますが、同時に社会主義者自身にも、小ブルジョア的な「エリート意識」があり、労働者階級と人民の力に対する評価に欠け、それを組織する努力も足りなかったことが指摘される

 

③彼らが『アジア人民の連帯』を説きながらも、その根底に、日本の社会主義者がアジア各国の社会主義者の闘争を「指揮する」という優越意識、指導者意識が存在したこと

 

④朝鮮、中国への侵略に反対し、それが支配階級の宣伝と違って、人民には徹頭徹尾『無益』だということを明らかにしたが、一方この植民地侵略が相手の民族に「何を与えるのか」、はたまたどんな禍根を残すのかについての点は、田添鉄二の『日韓両国の平民』など、二、三を除けばほとんど触れられていない。それは「支配階級(帝国政府)の宣伝」に反論することに重点が置かれていたとしても、ひとつの弱点といえる

 

➄そして朝鮮と朝鮮人に対する同情と救済、援助観が、朝鮮との連帯の基礎となっている。それは「大国意識」の無意識の反映であること

 

 

このについて言えば、『平民新聞』所載の『敬愛なる朝鮮』にて、主に朝鮮国民の立場より、当問題を観察することを強調しているこの論文でさえ、以下のような記述があります。

 

「如何にして朝鮮を救ふべきや」

 

「吾人(我ら社会主義者)朝鮮の歴史を悼み、その現在の悲惨を弔ふ、然れ共彼等を救へ彼等を導くに今日所謂国家的模型を以てすることの果たして能く(よく=十分に)彼等を救ふ所以なるや否や・・・・・・」

 

「朝鮮の識者は既に知らん、今日隣邦が朝鮮の独立を云為(うんい=言うこと為すこと)するものは、即ち朝鮮自ら独立するの力なきが為なることを」

 

「若し之に注ぐに超国家の大思想を以てし、之(朝鮮)を導くに人類同胞の大熱情を以てし、天が亡国的朝鮮に持つ所の職分決して忽せに(ゆるがせに=なおざりに)すべからざること覚らしめんか・・・・・・」(筆者傍点=吉岡吉典氏)

 

いずれも、これらの文章は明らかに指導者意識で貫かれています。

 

さらに幸徳秋水ら明治期の社会主義者の欠点として、石母田正氏はその著『続歴史と民族の発見』所収『幸徳秋水と中国』の中で、幸徳が日本の大陸政策と侵略戦争、対朝鮮政策に一歩も譲歩することなく批判して闘ったことは、我々の誇りとすべきことであると高く評価する一方、「秋水が民族の問題を正しく認識し得なかったこと」「日本の革命家たちが誤った路線に停滞」したことについて、鋭い指摘を加えています。

 

すなわち、幸徳の「(中国、インド、タイ、フィリピン、安南<ベトナム>、朝鮮の革命家)の運動が、単に一国の独立、一民族の団結以上に出ざるの間は、其勢力や甚だ見るに足るなしといえども、若し東洋諸民族の革命党にして、其眼中国家の別なく、人種の別なく、直ちに世界主義、社会主義の旗幟(きし=合戦のおり)の下に、大聯合(だいれんごう=大連合)を形成するに至らん乎、二十世紀の東洋は、実に革命の天地たらん」(『高知新聞』一九〇八・一・一)という文を、石母田正氏はこのように分析されます。

 

「インド、中国等の革命を論ずる秋水の態度が、それぞれのアジア民族の社会革命を説くに急であって、植民地または半植民地の地位におかれている諸民族の帝国主義列強からの独立という面が過小に評価されている」こと。

 

さらには「これらのアジア諸民族の社会的解放の前提が帝国主義列強からの解放にあること、したがって民族の解放と独立が当面の決定的な第一義的課題であることを認識していなかった」と批判します。

 

この点『敬愛なる朝鮮』でも、「国家的観念の否認」「超国家の大思想」が説かれています。

 

そして石母田正氏は「秋水のかかる思想は、決してこの場合の偶然的なものでなく」「それは秋水をはじめ明治末期の社会主義者が、支配民族としての民族の社会主義者であって被圧迫民族の革命家でなかった事情によってさらに大きな弱さとなったものであろう」と見なしています。

 

日本帝国主義の朝鮮中国侵略に反対し、朝鮮中国人民の民族解放闘争を一貫して支持し続けた幸徳らが、被圧迫民族解放についてどんな理論を展開していたかも無視できないことです。

 

その点、幸徳らはここでも指摘されているようにレーニンによって打ち立てられたような正しい理論を持つにはいたらなかったのです。

 

被抑圧民族の民族解放闘争と社会革命との関係については、石母田正氏も言うごとく、1921年の『民族、植民地問題に関するテーゼ』で明確な指針が与えられるが、この正しい理解はその後も用意でなかったと言えるでしょう。

 

たとえば、日本労働総同盟1923年4月17日の中央委員会で、『植民地の民族運動との提携』を決議しましたが、これについて「其の民族運動が単なる民族独立運動であれば、それは大帝国主義に反抗する小帝国主義であるのだから、無産階級とは縁のないものである。併それが無産階級化する限りに於いて、本国の無産階級と植民地の無産階級とは、共同の敵を有することになる。従って共同戦線を立ち得ることになり、また立つことが有利になって来る」(『労働』、一九二三、五、一)と説明しています。

 

なんだか現実離れしたような理屈になってきましたが、朝鮮独立運動の目標が『朝鮮の独立』ではなく、「資本主義的搾取からの解放」でなければならないという見解は、大正期の共産主義者の文にもあらわれています。

 

しかしながら、人間誰しも完璧ではない理由から、「当時の条件」のもとで数々の理論上における誤りや限界があったとはいえ、幸徳らの反帝闘争アジア民衆との連帯の闘争意識は、決して価値を失うものではありません。

 

そして、今まで述べてきたように朝鮮民衆の自由と独立を一貫して支持し続けた幸徳らを、「民族問題を正しく認識しなかった」と評価するのは、いささか一面的でしょう。

 

日本の朝鮮、中国への侵略に公然と反対し、アジア人民との連帯に進んだ社会主義者の運動の結果、当然のように天皇制政府(帝国政府)の厳しい弾圧に直面せざる得ませんでした。

 

 

そして「あの事件」が起きます。

 

 

『大逆事件』

(幸徳秋水ら以下12名は1911年1月 同罪状にて処刑される)

 

https://shuusui.exblog.jp/13933382/

 

【以下引用】

 

幸徳事件大審院判決  抄

 

全文ではない。幸徳秋水に関わる「理由」を中心。いずれ全文をアップ。 2004年9月

 

理由

 

1904年 幸徳は夙に社会主義を研究して北米合衆国に遊び、深く其他の同主義者と交り、遂に無政府共産主義を奉ずるに至る。その帰朝するや専ら力を同主義の伝播に致し、頗る同主義者の間に重ぜられて隠然その首領たる観あり。

 

管野スガは数年前より社会主義を奉じ、一転して無政府共産主義に帰するや漸く革命思想を懐き1908年世に所謂錦輝館赤旗事件に坐して入獄し、無罪の判決を受けたりと雖も、忿伊恚の情禁じ難く心ひそかに報復を期し、一夜その心事を幸徳に告げ、幸徳は協力事を挙げんことを約し、且つ夫妻の契りを結ぶに至る。その他の被告人もまた概ね無政府共産主義をその信条となす者、若しくは之を信条となすに至らざるもその臭味を帯びる者にして、その中幸徳を崇拝し若しくは之と親交を結ぶ者多きに居る。

 

1908年6月22日 「錦輝館赤旗事件」と称する官吏抗拒及び治安警察法違反被告事件発生し、数人の同主義者獄に投ぜられ、遂に有罪の判決を受くるや、之を見聞したる同主義者往々警察吏の処置と裁判とに平ならず、その報復を図るべきことを口にする者あり、爾来同主義者反抗の念愈々盛にして、秘密出版の手段に依る過激文書相次で世に出で、当局の警戒注視益々厳密を加うるの已むを得ざるに至る。ここに於て被告人被告人共の中、深く無政府共産主義に心酔する者、国家の権力を破壊せんと欲せば先ず元首を除くに若くなしとなし、凶逆を逞(たくまし)うせんと欲し、中道にして兇謀発覚したる顛末は即ち左の如し(続く)。

 

『大逆事件』記事より

 

https://shuusui.exblog.jp/13933382/

 

詳細は引用ブログにまとめられています。

 

 

 

同(Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

とくに1908年7月に成立した第二次桂内閣以後、社会主義運動に対する弾圧は徹底的に強化され、1910年5月25日には、いわゆる『大逆事件』による幸徳秋水らの検挙がはじまり、すでに述べているように、当氏含む以下12名すべての死刑1911年1月に処せられました。

 

幸徳らが検挙された3カ月後の1910年8月日本帝国主義の朝鮮侵略は、ついに『韓国併合』となって、朝鮮を完全に植民地化し、これから1945年8月15日まで朝鮮民衆を奴隷支配することになります。

 

「大逆事件」のあと、社会運動は完全に抹殺され、いわゆる『冬の時代』と言われる困難な時期に入ります。

 

したがって、日本の朝鮮での過酷な植民地支配に抗議する運動は圧殺され、日朝中三国の民衆の連帯も一時中断されてしまいます。

 

しかし、改めて幸徳らの活動を見てみると、それがフカシでも何でもなく、文字通り「命を懸けた活動」であったことを、深く深く認識させられます。

 

 

<参考資料>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房

 

・『大逆事件』記事

https://shuusui.exblog.jp/13933382/

 

・同(Wiki)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

<ツイッター>

 

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