日露戦争の前後に、日本の朝野が戦争熱にわきたっていた時代に、幸徳秋水そのほかの社会主義者戦争反対を主張しました。


彼らは『平民新聞』その他で、日露戦争が正義の戦争ではなく、侵略戦争であり、日本および朝鮮の民衆の何の幸福をもたらすものでないことを力説しました。


『敬愛なる朝鮮』(同紙三二号、明治37年6月19日)において、幸徳秋水は「政治家は曰く、我等は朝鮮独立のために、かつて日清戦争を敢行し、また日露戦争を開始するに至れりと。かくて我等は朝鮮救済を実行せんと誇称しつつあり。然れども彼等がいう所の政治的救済なるものが、果たして朝鮮の独立を擁護する所以(ゆえん)なるや否やに至っては、吾人(我ら)の容易に了解すること能(あたわ)ざる<ではない>ところ」と言い、



さらに「試(ためし)にこれを朝鮮国民の立場より観察せよ。これ一に日本・支那・露西亜諸国の権力的野心が朝鮮半島てふ空虚をつける競争に過ぎざるに非ずや。・・・・・・今日の朝鮮は畢竟(ひっきょう)<結局のところ>『勝利即正義』てふ野獣的国際道徳の犠牲に外ならず」と、これ以上にない正論を明瞭に述べました。


つまり建前として、「朝鮮を万年属国や欧米植民地の危機から解放してやる」という日本帝国の御託に、朝鮮独立のためという戦争名義の虚偽を暴いたところに、上述の論の核心があります。


また、徳富蘇峯・海老名弾正が朝鮮併合を唱え、それが朝鮮のためであるという説に対しては、『朝鮮併呑論を評す』(同紙三六号)において「見よ、領土保全を称するも、合同と称するも、その結果はただより大なる日本帝国を作るに過ぎざることを。また見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく曽て(かつて)韓国の独立扶植を説きたる者なることを。然らば則ち(すなわち)将来のことまた知るべきに非ずや」と述べました。


そして『韓国の土地を掠奪(りゃくだつ)するの企図』(同紙三五号)において、前大蔵省官房長の長森藤吉郎その他の戦争便乗者(その中には玄洋社の初代社長平岡浩太郎を含む)の土地掠奪の策謀を暴き、こういう明水の姿勢は、同時に朝鮮民衆への信頼の念を深めました。



彼は前記の『敬愛なる朝鮮』の中で下のように述べております。


「わが邦人(日本人)はつねに朝鮮国民を嘲罵して曰く、かれらは毫も(少しも)国家的観念なく、忠愛情操なしと。吾人(我ら)をもってこれをみれば、朝鮮人に国家的愛情なきは当然なり。かれらの幸福と安寧とが、国家および主権者のために毀損せられ来りしこと、実にかれらの歴史なればなり。・・・・・・朝鮮国民の最重の厄物は朝鮮政府にあらずや。曰く皇帝、曰く政府、これ朝鮮国民のためには、一個吸血の毒虫なるのみ。・・・・・・かれらは先天的に遊惰の民にあらず、また狡猾の民にあらず、いな、かれらは勤勉忍耐の美質特長を有せるなり。いかんせん、敵国侵略の歴史は常にこの民を退化して今日あるを致さしめぬ。・・・・・・吾人(我ら)は朝鮮人の素質を多望に寄す。かれらはあくまでも現実的なり。かれらは、いかなる圧迫の下にも厭世的(現実逃避)ならざるなり。・・・・・・他年一日、この半島の一角より、地に平和をもたらずべき一大予言者の音響をきくことなきを保せんや。・・・・・・亡国の屈辱をなめたるものに非ざれば侵略の罪悪を鞭つ(むちうつ)こと能(あた)わざる<でない>なり」



ここには朝鮮人に対する信頼の情があふれております。


もっとも秋水の思想の中には誤りもありました。


彼は朝鮮を救う道は、国家の独立の擁護ではなく、国家の否認であると考えました。


前記の『敬愛なる朝鮮』のなかで「朝鮮をして永遠の屈辱より超脱せしむただ一途あることを自覚するならん。『国家的観念の否認』これなり。・・・・・・今日の朝鮮はあに(豈=どうして)古代の猶太(ユタ=ユダヤ)に非ずや、・・・・・・これに注ぐ超国家の大思想を以てし、これを導くに人類同胞の大熱情を以てし、天が亡国的朝鮮に持つ所の職分決して忽に(いるかせに、ゆるがせに=あなどる、見下す)すべからざることを覚えらしめん」と述べ、こういう空想的な面がありましたが、秋水の立場において、日本と朝鮮との連帯が初めて可能となりました。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房