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・三・一独立運動の「虐殺」あと その成り行き

 

 

『大勲位菊花大綬章』 (Wikiより)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8B%B2%E4%BD%8D%E8%8F%8A%E8%8A%B1%E5%A4%A7%E7%B6%AC%E7%AB%A0

 

梨本宮方子妃

 

 

挙式の前日、李垠は陸軍中尉に昇進し、大勲位菊花章を授けられる。一方、新婦は両親から「あなたに負わされた重大な任務を忘れないように」と最後の教訓を受けた。

 

任務とは日韓両国の“くさび”となって、日本の永久支配を完成させることであった。

 

※韓とは戦後の「大韓民国」ではなく、南北朝鮮をまたぐ大韓帝国のこと

 

この政略結婚に反対する朝鮮人側の反対運動も熾烈をきわめた。

 

李垠邸はむろん、梨本宮家にも発信不明の電信、電話が殺到した。明大生徐相漢<ソ・サンハン>は臨時の京橋局電報配達員となって、式場の爆破を計画した。彼はピストルと手製爆弾を用意し、式の当日には確実に李垠邸に潜入できる手はずをととのえたが、ソウル鐘路署から派遣された朝鮮人刑事が学生に化けて徐相漢に近づき、未然に検挙した(在日韓民族運動史)。

 

彼の詳細については、以下のようになります。

 

대구(大邱) 사람이다.

 

1918년 일본 동경으로 건너가서 명치(明治)대학에서 경제학을 전공하고 다시 정칙(正則)영어학교에 진학하였으나, 학비조달이 어려워 신문배달, 공원, 우체부 등으로 일하면서 고학하였다.


그는 노령에서 크게 활약하고 있던 친형 서상일(徐相日)의 영향을 받아 항상 항일운동에 헌신할 것을 결심하고 있었으며, 1920년 1월에는 유진걸(柳震杰)·김낙준 등 동지들과 함께 「동경노동동지회」를 조직하여 활동하였다.

 

<(徐は)テグ出身の人である>

 

<1918年、日本の東京にわたり、明治大学で経済学を専攻し、また正則英語学校へと進学し、学費調達が難しくなり、新聞配達、工員、郵便配達などで働きながら苦学した。彼は老齢でありながら大きく活躍していた実兄である徐相日(ソ・サンイㇽ)の影響を受け、常に抗日運動に身を捧げることを決心し、1920年1月には柳震杰(ユ・チンゴㇽ)>、キム・ナッチュンなどの同志たちと一緒に「東京労働同志会」を組織し活動した。>

 

이는 동경에 있던 「고학생동우회」와 맥락을 같이하는 단체였는데 그는 이 단체를 중심으로 항일투쟁을 계획하였다. 이 계획의 일환으로 동년 4월 29일에 매국노들의 간계에 의해서 영친왕(榮親王)과 일본황족인 이본궁방자(梨本宮方子)가 결혼식을 올리게 되자 그는 폭탄투척을 계획하였다. 그는 이 결혼이 장래 한국의 독립에 큰 장애물이 된다고 생각하고 그 식장에 폭탄을 던지고, 동시에 일본 내무성과 외무성, 경시청 등을 폭파하기로 하였다.・・・


<これは、東京にあった「苦学生同友会」と関係を共にする団体であり、彼(徐相漢)はこの団体を中心とし抗日闘争を計画した。この計画の一環として、同年4月29日に売国奴たちの関係のために、英親王(ヨンチンワン=李垠)と日本皇族である梨本宮方子(イボングンパンジャ)との結婚式を挙げることになるや、彼は爆弾投擲を企てた。彼はこの結婚が、将来韓国(大韓帝国=朝鮮)の独立への大きな障害となると考え、この式場に爆弾を投げて、同時に日本内務省と外務省、警視庁なども爆破しようと計画した。・・・>

 

『대한민국 독립운동가 서상한(徐相漢)-일본방면-독립장<大韓民国独立運動家 ソ・サンハン(徐相漢)-日本方面-独立章>記事より

 

http://w3devlabs.net/korea/archives/3572

 

このように、二人の結婚は、あらゆる面において「ハレーション」を引き起こすに十分な出来事でした。

 

当日の鳥居坂一帯は、慶祝をあらわす日の丸に埋めつくされたが、警戒は厳重をきわめていた。邸の周辺二キロ以内はくまなく巡査が配置され、四辻ごとに憲兵と私服の特高が目を光らすという無気味な緊張の中で、結婚式が行なわれた。

 

 

『朝鮮貴族(売国奴) 尹徳栄(ユン・トギョン)、李完用(イ・ワニョン)、宋秉畯(ソン・ピョンジュン)

 

※윤덕영(尹徳栄) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%A4%EB%8D%95%EC%98%81

※이완용(李完用) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EC%99%84%EC%9A%A9

※송병준(宋秉畯) https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%86%A1%EB%B3%91%EC%A4%80

 

ちなみに、宋秉畯(ソン・ピョンジュン)は、日韓併合に関わった、大陸浪人(明成皇后<閔妃>暗殺のテロリスト・内田良平が設立した)『一進会』のメンバーでした。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その18(日韓併合は朝鮮人の「希望」だったのか)

 

勅使、皇族、朝鮮総督、李王<純宗>職高官をはじめ日韓合併に協力して爵位を得た尹徳栄、李完用、宋秉畯らの朝鮮貴族<売国奴>が列席したが、新郎李垠は孤独であった。

 

両親はすでに亡く、兄李王<純宗>の使者ら形ばかりの親戚代表が、日本陸軍の正装をした新郎の晴れ姿を見守った。

 

方子姫は皇族の前例を破って、十二単を着用せず、洋装に宝冠の花嫁姿で式場にあらわれた。

 

 

『李方子<イ・パンジャ=梨本宮方子>』 (韓国Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%B4%EB%B0%A9%EC%9E%90

 

新郎が朝鮮王世子では衣冠束帯というわけにはいかない。

 

やむを得ず軍服を着て挙式するので、それにあわせたのである。だが、式は日本古来の三三九度の盃で行なわれた。

 

この慶事は政略的にも大いに内外に宣伝される必要があった。

 

そこで四日間にわたって盛大な「王世子の御招宴」が続けられた。こうして“百年の計”は重要な一つの布石を完了した。朝鮮王世子李垠は名実ともに日本皇族となり、皇族身分令の定めるところによって東京に永住する運命となったのである。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 199~201頁より

 

 

・国家百年はついえたが・・・

 

 

彼らの目論見は、のち数十年後、海の向こうの大国に「叩き潰される」結果となるが、朝鮮半島と日本の歴史において『深すぎる禍根』を、さまざまな方面で残す結果となった。

 

“礼儀のない国はパージされる”

 

これが、日本における現在の「北東アジアでの立ち位置」ですが、それは戦前も戦後も、無礼極まりない行動を繰り返してきた、当然のツケであり、モノリンガルがゆえ「外界との接触」が、大衆的レベルで極度に抑えられた日本で、どうしてもアジア諸国と関係で「自己中心的な発想」になってしまうことは、結果的に自らの首を絞め、国益を棄損していることに気が付けず、己の『都合の悪い物事』に関しては、遠ざけたり、ネグったりする行動パターンも、自身の包容力や器の低さを露呈してしまっている、“大いなる恥”として、深く認識せねばならないだろう。

 

北東アジアにおける、現代の多様な政治的係争の根幹は、まさに『この時代』に凝縮されており、あらゆる「物事の本質」として、今後、日本国家の「取るべき指針」のヒントが、大いに詰まっているといえる。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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