前回の記事

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐

 

 

 

『米軍機から台湾にばら撒かれたカイロ宣言の内容を示すビラ』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%AD%E5%AE%A3%E8%A8%80

 

一九四三年一一月ニ七日米、英、中の三国首脳はカイロ宣言を発表し、そのなかで「三大国は、朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」とした。ついで三国首脳は一九四五年七月二六日のポツダム宣言で「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」とし、同年八月九日、ソ連はポツダム宣言に参加して対日戦争に参戦した。

 

ソ連軍は満州の関東軍を撃破するとともに、陸海空から北朝鮮にいる日本軍を攻撃し、たちまち雄基、羅津、元山を占領した。ソ連軍は三八度線の北に進駐しただけだったが、日本の朝鮮支配はこれによって全体に麻痺した。米軍の南朝鮮への上陸は日本降伏後の九月八日以降におこなわれた。

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 52~53頁より

 

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編1(その歴史と38度線)‐

 

 

『植民地朝鮮における日本軍の構成』 (※画像本体資料)

 

https://hakata.win/38dosen

 

こちらの方で補足させていただくと、「外地」である朝鮮に駐屯した日本軍は、それまで『朝鮮軍』という名称で半島全域の区画で構成されていたが、1945年2月1日日本大本営による「本土作戦に関する統帥組織」の再編で、従来の在朝鮮日本軍の総称であった『朝鮮軍』を解体し、38度線以北の日本軍「関東軍の指揮下」におき、以南の軍隊「大本営直轄野戦軍である第一七方面軍の指揮下」におきました。

 

 

・夜明け前 解放を目指す朝鮮人たち

 

太平洋戦争における不意打ちによって得られた日本帝国主義の緒戦の勝利は短かった。

 

1942年も終わるころには、日本軍の敗勢は次第に明らかになり、翌年2月にはナチス・ドイツの軍隊がスターリングラードの戦闘で敗走し、枢軸国(日独伊三国同盟)の一角であるイタリアが、1943年9月に降伏した。

 

このような世界の民衆のファシズムと帝国主義に反対する解放闘争は、朝鮮人民の解放にとって、きわめて有利に働いていました。

 

 

『第9代朝鮮総督 小磯国昭』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%A3%AF%E5%9C%8B%E6%98%AD

 

「朝鮮が仮令第二線銃後の一角である以上、戦況の不利なるに伴ひ、何時暴動化するやうなことがないとも限らない」

 

「サイパンの失陥は朝鮮今後の統治を著しく困難に陥れるものと信ずる」

 

(小磯国昭 『葛山鴻爪』)

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 256頁より

 

 

このように、朝鮮総督府自身が、うちつづく日本の敗戦と合わせ朝鮮支配に不安の色をかくせませんでした。

 

・・・・・・物価は殺人的に暴騰し、賃金は飢餓的であり、収奪はいよいよ強化され、すべての人民の反日感情が極度に先鋭化していることだけはまぎれもないことであった。いわんや、やれ徴用だ、報国隊だといっては労務を強制的に供出させ、農民たちが奴隷にひとしいありさまで狩りだされていっては、工場や鉱山などで鞭打たれており、これに加えて徴兵や学徒兵制度の追い撃ちまでかけられ、おびただしい生命が戦場へ狩り立てられるようになっていた。その結果、深い山中には脱出兵や徴兵忌避者が群れをなして潜むようになり、いまや国内ゲリラ戦前夜のありさまを呈するばかりであった

 

(金史良 『駑馬万里』)

 

『同』 256~257頁より

 

朝鮮から中国へ、そして日本軍占領下の北京(ベイジン)を脱出して、大行(ターハン)山脈の山中に華北朝鮮独立同盟の前哨所を訪ねあてた金史良は、そこでむさぼるように朝鮮国内の状況を訪ねる朝鮮の同志に、以下のように語り続けた。

 

「それだけに、国外にあって武器を手にして敵に肉薄する反日革命軍の存在は、国内の同胞たちに、大きな希望と勇気と、そして自信を育ませ、与えずにはおかなかった。わけても金日成部隊は、白頭山の密林を突き抜け、鴨緑・豆満の長江を上下しながら日本軍の後方を攪乱し、敵の肝胆を寒からしめているばかりでなく、一方では、国内の人民をこのうえなく鼓舞し、指導し、影響をおよぼしているのであった」

 

『同』 257頁より

 

金日成の率いる朝鮮人民革命軍は、1940年には大部隊の活動から、小部隊の活動にきりかえ、満州・朝鮮の各地に深く浸透した。

 

中国の延安(イェンアン)では、中国共産党の指導する中国人民軍と行動をともにする中で、朝鮮の社会主義者たちは、1942年に朝鮮独立同盟をつくり、華北では日本軍と抗戦、また重慶(チョンチン)でも、金九らが指導していた大韓民国臨時政府は韓国光復軍(テハンクァンボックン)を組織していた。

 

無論、朝鮮国内でも1944年8月、呂運亨(ヨ・ウニョン)らを指導者に、ソウルで秘密裡に建国同盟(コングットンメン)が結成され、国外での独立を目指す組織と連絡を取りつつ、解放の日に備えていました。

 

 

・日本の敗戦 朝鮮の独立

 

かくして、大日本帝国は崩壊した。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 261頁より

 

ポツダム宣言とソビエトが加えた条項を受諾する形で、降伏文書に調印し、連合国の要求を無条件に受け入れました。

 

これにより朝鮮は、日本による奴隷的植民地から解放され、再び独立国としての道を歩もうとしていました。

 

 

<参考資料>

 

・Cluttered talk blab blab blab 『現代語訳 Japanese Instrument of Surrender』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11765035490.html

 

・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

 

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