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‐近くて遠い国 朝鮮 序章編‐

 

 

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会より

 

・朝鮮の歴史と成り立ち

 

〔略史〕

 

朝鮮は、中国東北地方の南端から日本列島に向かって突出した長さ1000キロメートルの半島と、その周辺に散在する約三三〇〇の島からなる。総面積は約二二万平方キロメートルで、半島部の面積は総面積の約九七パーセントを占める。この広さは、日本の本州から青森県除いた面積に近い。

 

『同』 3頁より

 

 

『日本列島 本州』 (ウィクショナリー日本語版より)

 

https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%B7%9E

 

朝鮮半島の地に、いつごろから人間が住むようになったのかはまだよくわかっていない。考古学でいう旧石器時代の遺跡には朝鮮にはないとながいあいだ信じられてきたが、一九六二年、北朝鮮の咸鏡北道雄基郡屈浦里で、数万年前あるいはもっと前のものと推定される旧石器が発掘され、さらに一九四六年、南朝鮮の忠清南道公州郡の錦江河畔でも同様の発掘があり、従来の定説は覆えされた。

 

朝鮮の古代史については学者間にいろいろな論議がある。北朝鮮の最近の学説では、朝鮮は紀元前五〇〇〇~四〇〇〇年に新石器時代にはいり、紀元前二〇〇〇~一〇〇〇年には青銅器が使われていたという。

 

紀元前五~四世紀には、いまの中国東北地方の遼河流域から朝鮮半島西北部にかけて、最初の奴隷所有国家である“古朝鮮”ができ、つづいてそれよりも南の地域に扶余、辰国(馬韓、辰韓、弁韓)などの国家が形成された。これらの国では紀元前三世紀には鋼鉄をつくり、農器具や武器を使用していたとされている。

 

漢の武帝は紀元前一〇八年に古朝鮮を攻略し、朝鮮の地に楽浪、臨屯、玄菟、真番の四郡を設けた。このうち楽浪郡は約四〇〇年存続し、漢の東方の拠点となった。他方、紀元前一世紀ごろから朝鮮の各地に封建的な群小勢力が形成された。北方の高句麗は強力な国家を形成し、これにつづいて南方では百済と新羅が近隣の諸種族を征服し、それぞれ紀元七世紀にかけて中央集権的な封建国家として栄えた。これを三国時代という。                              

 

新羅は紀元六六〇年代に百済と高句麗を倒して三国の統一を達成し、約三〇〇年間つづいた。高句麗の遺民の一部は東北に移動して渤海王国をつくり、これは約二〇〇年存続した。

 

九世紀後半には、朝鮮半島は一時、新羅、泰封、後百済の三国に分かれたが、九一八年に出現した高麗王朝は国土の統一をやりとげ、一三九二年までつづいた。ついで朝鮮最後の封建国家である李王朝の朝鮮(李氏朝鮮)がこれにとってかわった。

 

李氏朝鮮は約五〇〇年間つづいたが、一九一〇(明治四三年)年の「日韓併合」によって滅亡、朝鮮は日本の完全な植民地に転落した。日本の朝鮮支配は、第二次世界大戦が終わる一九四五(昭和二〇)年まで三六年におよんだ。

 

『同』 5頁より

 

 

 

解放後の朝鮮は南北に分断され、一九四八年、南半部で大韓民国の樹立が宣言され、ついで同年、北半部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立された。

 

『同』 5~6頁より

 

 

・38度線の成立 今日にまで至る南北分断のはじまり

 

そもそも三八度線による朝鮮の分断なるものは、第二次大戦中のいかなる国際協定や決議によるものでもないのである。

 

三八度線は、朝鮮に存在した日本軍の武装解除についての米・ソの作業分担線として指定されたにすぎない。それは在朝鮮日本軍の分断であって、朝鮮それ自体の分断ではなかった。

 

三八度線の設定が最初に考えられたのは、大戦終了直前の一九四五年八月一一日、アメリカの国務・国防調整委員会で、日本軍降伏接受の訓令草案を準備する作業においてである。

 

この訓令草案で、在朝鮮日本軍は三八度線以南では米軍に、以北ではソ連軍に降伏すべしとされた。この案は、八月一二日から一四日の間に、アメリカの参謀総長の検討を経て大統領の決裁を得たのである(一)。この日本処理案は、マニラのマッカーサーに送られると共に、英・ソ・中三首脳(アトリー首相、スターリン首相、蒋介石総統)にも写しが送られた(二)

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 55~56頁より

 

※註釈

 

(一) U.S. Congress, House Committee on Foreign Affairs, 81 st Cong., st Session. Hearing on H.R “Korean Aids” Goverment Printing Affice, June 8━23, 1949

 

(二) 「トルーマン回想録」

 

『同』 57頁より

 

『朝鮮はアジア東部沿岸における支配的基地となりうる』

 

(タイム誌一九四七年五月一九日号)

 

『同』 57頁より

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その2(なぜ南北に分かれたか①)‐

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その2(なぜ南北に分かれたか②)‐

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その2(なぜ南北に分かれたか③)‐

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その2(なぜ南北に分かれたか④)‐

 

‐新シリーズ・朝鮮統一と日本を考える その2(なぜ南北に分かれたか➄)‐

 

〔三八道線〕

 

朝鮮はもともと、一つの言語と共通の文化およびながい歴史をもつ単一の民族国家である。その朝鮮が現在のように南北に分裂したのは、もっぱら人為的な原因による。

 

日本の敗戦から朝鮮戦争(一九五〇~五三年)が勃発するまでの期間、事実上の国境線のような形で朝鮮を南北に分断していた北緯三八度線は、元来は第二次大戦末期から日本降伏直後にかけて朝鮮の南北にそれぞれ進駐した米ソ両軍の任務担当区域の境界線として設定されたものであった。

 

戦時中の米ソ両国首脳の合意にもとづき、ソ連軍は北緯三八度以北の日本軍の降伏受領と武装解除にあたり、米軍は三八度以南で同じ仕事をおこなうことになったのである。

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 6頁より

 

つまるところ、38度線は本来、植民地時代に朝鮮半島に駐屯していた日本軍の武装解除に設けられた任意の線でした。

 

さらに詳しく見ていきます。

 

・日本軍再編による『朝鮮軍』解体 それに基づく米ソの武装解除 

 

 

『朝鮮半島38度線と軍事境界線の違い』(※画像本体資料)

 

https://hakata.win/38dosen

 

三七度や三九度でなく、なぜ三八度線が考えられたかといえば、それは当時の日本軍それ自体が三八度線をもとにして区分されていたというだけのことである。

 

すなわち、一九四五年二月一日日本大本営による「本土作戦に関する統帥組織」の再編で、従来の在朝鮮日本軍の総称であった「朝鮮軍」を解体し、三八度線以北の日本軍関東軍の指揮下におき、以南の軍隊大本営直轄野戦軍である第一七方面軍の指揮下においているのである。

 

この日本軍の公正区分にしたがって、日本軍の武装解除の分担区分が立案されたものと推定される。

 

この分担案は、後に九月二日に総司令部指令第一号として明文化されるが、明文化以前に事実上の成案として提出され執行されていた。八月二〇日、降伏条項受理にマニラに出向いた河辺虎四郎全権にマッカーサーはこの命令案を手交している。だから二二日に日本政府の内務次官は、朝鮮政務総監に「日本軍の武装解除は、三八度以北がソ連、以南が米軍となる見込み」と打電している。

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 54頁より

 

つまり、時系列にみると「朝鮮軍」→「38度以北は関東軍」「38度以南は大本営直轄野戦軍(第一七方面軍)」となり、このような軍事体制を理解した上で、連合国による日本軍の武装解除が行われました。

 

無論、ソ連側もこれに応じています。

 

二一日、延吉において第三四軍櫛淵司令官と武装解除協定を行ったソ連軍は、その範囲を三八度以北と明言している(四)

 

また八月二六日、平安南道人民委員会成立の際に、来賓として臨席したソ連軍司令官チスチヤコフ大将は「三八度線は米ソ両軍の進駐の境界とするだけで政治的意味はない」と発言している(五)

 

『同』 55頁より

 

※註釈

 

(四) 「朝鮮総督府終政の記録」、朝鮮総督府総務課長山名酒喜男、(友邦協会、一九五六年一二月)

 

(五) 「対ソ作戦記録」

 

『同』 57頁より

 

 

・朝鮮分断の直接的契機となった アメリカによる38度線以南の「植民地化」

 

そしてこれらの取り決めは、のちに連合国最高司令官総司令部『指令第一号』(1945年9月2日)に次のように明文化された。

 

「一の(ロ)、『北緯三八度以北ノ朝鮮ニ在ル日本軍部隊ハソヴェト極東軍最高司令官ニ降伏スベシ』」

 

「一の(ホ)、『北緯三八度以南ノ朝鮮ニ在ル日本軍部隊ハ合衆国太平洋陸軍部隊最高司令官ニ降伏スベシ』」

 

と。そこには朝鮮それ自体を分断するなんの保証も根拠もない。

 

三八度以北に進駐したソ連軍は、日本軍を武装解除し、朝鮮の政治については朝鮮人自身に任せた。その「朝鮮人民に与える赤軍布告文」(八月二〇日)に曰く。

 

「・・・・・・諸君の前には、自由と解放が与えられた。いまやすべてのことが諸君の意思にゆだねられている・・・・・・」と。

 

しかるに三八度線以南に進駐した米軍は(九月七日仁川上陸)、日本軍の武装解除のみならず、朝鮮それ自体に軍政を敷いた。その「駐留軍司令官R・ホッヂ中将の声明」(九月九日)に曰く。「・・・・・・余の指揮下にある諸君は、連合国総司令官並びに、その指揮下に発する余の命令に厳格に服さねばならぬ・・・・・・」(六)と。

 

この南朝鮮における米軍の軍政実施それ自体が、違法であり、分断化の発端となるのである。

 

『同』 55頁より

 

※註釈

 

(六) 「終戦前後の状況報告」 平壌地方運輸局経理部長荒木道俊、(一九四六年八月)

 

『同』 57頁より

 

彼は、後にこんなことを述べています。

 

‐韓国に進出した日本の独占企業の話 その1(加速するアメリカへの依存)‐

 

 

ホッジ・アメリカ駐屯軍司令官・朝鮮南部軍政庁長官 陸軍中将(Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B8

 

「私は言うならば総督である。従来使っていた意味で総督である」

 

このようにして、一切の取り決めを無視したアメリカは、朝鮮半島の38度線以南、1948年8月15日に「韓国」という傀儡国家を創造しました。

 

‐文大統領の努力、「職を失い」悔しがる在韓米軍司令官、70年ぶりの敵対行為の中止‐

 

だから、日本が朝鮮半島の分断には関わっていないのは事実でしょう。もう敗戦した時点で、彼らに主導権はなく、韓国と同様、アメリカの「植民地」としての戦後を余儀なくされました。

 

 

・事実上の「南北国境線」である軍事境界線(非武装地帯)

 

 

『朝鮮半島軍事境界線』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E5%A2%83%E7%95%8C%E7%B7%9A_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%8D%8A%E5%B3%B6)

 

冷戦の激化にともない、朝鮮の独立にかんする米ソの話し合いが行き詰ったことから、三八度線は固定され、国境線と同じように扱われることになった。

 

現在、朝鮮の南北の境界は厳密には三八度線ではなく、朝鮮軍事休戦協定によって設けられた軍事境界線(俗に停戦ラインと呼ぶ)である。この境界線は、一九五三年七月二七日午後一〇時に休戦協定が発効した時点で、それまで激しい戦闘をまじえていた両軍の陣地や散兵線を固定したものである。

 

全長二六〇キロメートルの軍事境界線は、南北それぞれ幅二キロの非武装地帯にはさまれて、山をこえ、谷をわたって半島を横断している。これは、ほぼ三八度線に近い個所を走っているが、三八度線そのものではなく、東海岸では三八度より北に、西海岸ではそれより南にくいこんでいる。この結果、朝鮮戦争の前に南半部に属していた古都開城は、休戦後は北半部の主要都市の一つになった。

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会 6~7頁より

 

以上が、朝鮮半島が分断した歴史的背景です。

 

 

<参考資料>

 

・時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

 

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