国連朝鮮委員会は3月6日ソウルへと再び来ました。


しかし、カナダやオーストラリアはあくまでも南朝鮮単独選挙に強く反対して、激しい議論の末、12日に表決が行われました。


賛成インド、中華民国、フィリピン、サルバドル


反対カナダ、オーストラリア


棄権フランス、シリアでした。



結果的に賛成は半分に過ぎず、アメリカの意を受けて構成されたこの委員会でさえ、わずか半数しか支持しえないほど、この選挙は無理なものでした。しかもこの決議にさえ、アメリカ占領軍により選挙のための自由な雰囲気が保障される改革が行われた場合、という条件がついていました。


もちろん、マーク・ゲイン『ニッポン日記』の報告するように、この条件はつくられませんでした。


単独選挙に対する反対を弾圧するために米軍は戦闘態勢につき日本植民地時代の警察、テロ団が総動員され荒れ狂いました。


南朝鮮でこの選挙に賛成したのはアメリカ占領軍に支持された李承晩(大韓独立促成国民会)と金性洙(韓国民主党)だけにすぎず、他のすべての政党は反対し、金九、金奎植ほか7人の主要政界人は「単独選挙不参加、南北自主統一」を声明しました。金九、金奎植は2月16日、北朝鮮政界に対し、南北政界指導者会談を提案していました。南朝鮮民衆は各地で単独選挙に反対し、ゼネストやデモを行い武装蜂起しました。


特に済州島人民は全島を挙げて武装抵抗に立ち上がりました。


3月26日北朝鮮の平壌放送は、南北政党社会団体連席会議を呼びかけ、これに対し南朝鮮では、大韓独立促成国民会と韓国民主党以外のすべての政党社会団体が賛成しました。


会議は4月19日~28日まで平壌で開かれ、北朝鮮15の政党団体、南朝鮮40の政党団体、南北合わせて代表625人が参集しました。



会議は26日、米ソ両国にメッセージを送り、南朝鮮単独選挙反対、国連朝鮮委員会の退去、米ソ両軍即時撤退、米国の責任追及を主張しました。


30日に発表した共同声明において、米ソ両軍の同時撤退、南北不戦の確認、南北政治会談、自由選挙による統一民主主義政府の樹立、南朝鮮単独選挙反対を主張しました。


いよいよ5月10日の選挙に際しては、アメリカ軍は戦闘戒厳態勢に入り、南朝鮮全域に武装警官、テロ団が配置されるという雰囲気のもとで「選挙」が行われました。


その際に、単独選挙に反対したという理由5万人余の民衆が逮捕され、350名が殺傷されました。


南北連席会議に参加した政党団体はすべてこの「選挙」をボイコットし、候補も立てませんでした。


この選挙後に国会がつくられ、李承晩が大統領となり、8月15日には大韓民国政府が発足することになりました。


こうして朝鮮は分裂しました。



6月25日ふたたび平壌において、金九、金奎植の参加も得て、第二回南北政党社会団体指導者連席会議がひらかれ、全朝鮮選挙を行い全朝鮮最高立法機関をつくり、憲法も採択して、全朝鮮的政府を樹立する方針が決定されました。


8月25日、南北朝鮮において選挙は実施され、数々の事情や時代的背景もあり、北朝鮮においては有権者の90%以上が、南朝鮮において非合法下の間接選挙により77.52%が投票し、9月2日に最高人民会議第一次会議が平壌で開かれました


この会議で朝鮮民主主義人民共和国憲法が採択され、最高人民会議常任委員会が選挙され、人民経済計画が決定され、金日成が首相に選出されました。



また、南朝鮮における民衆の抵抗運動は依然として続いていました。


これに対し、テロと各種弾圧が渦巻き、逮捕された者は1949年中に11万8621名、50年1月~4月の間に3万2018名に上りました。その中で金九も暗殺され、済州島の武装蜂起に対しては48年10月に韓国軍が弾圧のために派遣されましたが、この派遣軍でさえ途中で反乱を起こし、順天、麗水二都市を占領しましたが、のちに智異山に逃れてパルチザンとなりました。


1948年12月12日、第三国連総会は次のような部分を含む決議を行いました。



「臨時朝鮮委員会が観察し、協議することができたところの地域で、かつ朝鮮人民の大多数が居住している朝鮮の部分に対し、有効な統制と管轄権を有する一つの合法的な政府が設立されたこと、この政府は朝鮮のこの部分における選挙民の自由意志の有効な表現であり、かつ臨時委員会により観察された選挙に基づくものであることおよび、これが朝鮮におけるこの種の唯一の政府であることを宣言する(『第三回総会決議一九五』IIIより)



南半部の政権の成立を認めたこの決議が、それ以後今日に至るまで朝鮮分断の根拠として悪用され、また日韓会談においても悪用され、在日朝鮮人や韓国人の分断や、現在の北朝鮮の情勢や日本の態度も、諸悪の根源を詰めに詰め込んだシロモノが、当時の国連(アメリカ)の意思によっていとも簡単に決定づけられました。


以上、朝鮮の分断がいかに朝鮮人民の意思に反し、国際的にも無理を重ねて強行されたか、参考書を手許に、その歴史を少しばかり語らせて頂きました。



<参考文献>


・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第三巻 勁草書房