前回の記事
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その31(『新幹会』や『光州学生抗日運動』など)‐
・おそう大恐慌 膨れる日本帝国主義支配の 「矛盾」
1920年代も後半にはいると、先述のごとく、朝鮮における労働者や農民の「日常的要求」と結びついて、抗日・反帝国主義の旗印を鮮明にした運動が展開され、中国でも民族解放闘争が高まり、それに加えて、社会主義ソ連の着実な発展があり、日本帝国主義の「伝統的な侵略政策」は、大きな齟齬をきたすことになった。
『世界恐慌初期の取り付け騒ぎ時にニューヨークのアメリカ連合銀行に集まった群衆』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E6%81%90%E6%85%8C
さらに1929年アメリカでおこった大恐慌は、たちまち日本・朝鮮にも波及し、日本帝国主義をさらに激しく揺さぶった。
朝鮮では、1930年代のコメが豊作であったことも手伝い、「恐慌の打撃」は甚大でした。
この年、朝鮮農民が被った損害は、前年の米穀生産額に比べて7265万円の損失、綿花・まゆなど、「全品目」で軒並み暴落したので、農産物全体の損失額は、前年の農業生産総額の26%にもなる2億8753万円という巨額を叩き出した。
そして農業恐慌は「慢性化」し、一方で日本独占資本の生産物(商品)は、「独占価格」で吊り上げられていて、農業物と工業生産物の「鋏上価格差」は、植民地にあるだけいっそう甚だしく、農民の零落は激甚となった。
恐慌の打撃は、労働者にも激しく転嫁される。
1929年から1931年までの朝鮮での日本人労働者と朝鮮人労働者の賃金指数を比べると、日本人労働者のそれが一四%低落したのに対して、朝鮮人労働者のそれは一九・六%も低くなった。恐慌をきっかけに、朝鮮人に対する収奪がいっそう強められたのである。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 237頁より
1930年末、朝鮮総督府が調査したところによると、朝鮮人で「無業者」は、調査人員1757万2600人中、832万4000余人(47%)にのぼった。
さらに、調査未詳の227万2000余人は、「有業者」とすることは難しく、それを「無業者」に加算すると、実に全体の53%になります。
これが、約20年にわたる日本帝国主義の「植民地支配の結果」であり、世界恐慌の波及によって、いっそう矛盾を押し広げる現実となった。
・間島での独立闘争
『中国・間島地方』(同)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%B3%B6
‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その26(斎藤実の文化政治と間島の朝鮮人虐殺)‐
中国との国境の河一本を隔てた間島(延辺)では、1920年代に抗日闘争がひきつづき発展していた。上記の「日本軍による虐殺」にも関わらず、朝鮮人による様々な独立軍の活動は、やむことなく、1920年~1925年までに、鴨緑江<アㇺロッカン>と豆満江<トゥマンガン>の沿岸で、実に3929回の戦闘を交え、数多くあった組織も次第に統一に向かい、独立軍に対する共産主義者の影響も強まった。
1930年5月30日夜半から31日にかけて、間島では、朝鮮の共産主義者が主力となって「地主と日本帝国主義を打倒せよ!」と決起した。しかし、これは革命勢力の主体的・客観的諸条件を考慮しないで起こされたため、日本帝国主義の弾圧により失敗した。
その上、間島における地主・高利貸しは中国人であり、小作人はたいてい朝鮮人であったために、日本帝国主義によって「朝鮮人と中国人の民族隔離策」に、その結果が利用された。━間島における朝鮮人共産主義者は、この苦い経験にもとづいて、大衆の革命運動を、より正確に指導するため、たたかい方を修正することを迫られた。
当時、満州には約100万(実際はこれよりもっと)の朝鮮人が住んでおり、その大半は豆満江を境に朝鮮と接する間島一帯に居住していた。彼らの大多数は、李朝末期の「社会的混乱」と日本帝国主義の「植民地支配の圧政」によって、やむなくここに移住することを強いられたのであり、大部分が貧農でした。
また、抗日闘争のため亡命を余儀なくされた愛国的な人たちも少なくなかった。
ゆえに、この地域(間島)は、早い段階から朝鮮人の抗日独立運動の「拠点」となり、日本帝国主義が、間島の朝鮮人独立運動が「朝鮮国内」に波及することを恐れ、1920年にここへ出兵し、朝鮮人の大虐殺をおこなったことは、前にもお話したところです。
・満州事変と合わせて画策された 日本の「間島侵略論」
そして今、世界恐慌と重なって、大日本帝国の朝鮮に対する「支配の矛盾」が激化するにおよび、日本帝国主義は朝鮮人を「満州」へ送り込み、日本の侵略の「尖兵」として、中国民衆と対立させることをはかる計画の末に起きたのが、1931年7月の『万宝山事件』です。
万宝山事件(まんぽうざんじけん)とは、1931年(昭和6年)7月2日に長春北西に位置する万宝山で起こった、入植中の朝鮮人とそれに反発する現地中国人農民との水路に関する小競り合いが中国の警察を動かし、それに対抗して動いた日本の警察と中国人農民が衝突した事件。死者なく収まったが、この事件をきっかけに朝鮮半島で中国人への感情が悪化して排斥運動が起こり、多くの死者重軽傷者がでた[1][2]。事件に続けて起きた朝鮮排華事件を包含して万宝山事件と呼称されることもある。
『万宝山事件』 (Wikiより)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E5%AE%9D%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
それと一緒に、日本は、もう一度「より大規模」に『間島出兵』を計画した。
『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 239頁より
朝鮮に駐屯していた日本軍(朝鮮軍)は、1931年10月ごろをめどに、会寧から間島の竜井村へと通じる鉄道を「故意に爆破」し、それを機会に日本軍を間島に大規模展開させ、ここを占領することで、朝鮮人の抗日独立闘争を「圧殺」しようと画策した。
※ちなみに『朝鮮軍』は、敗戦直前の1945年はじめに解体され、38度線以北を「関東軍指揮下」に、以南を「大本営直轄・第一七方面軍」へと改組します。
満州国の位置 (同)
この陰謀は、一足先に日本軍が柳条湖で南満州鉄道を爆破し、「全満州を占領」するために『満州事変(中国東北侵略戦争)』を引き起こしたため、実行にはいたらなかった。
‐東アジアの今とこれから その22(満州事変、日中十五年戦争勃発、裏切者続々と現る)‐
しかし満州事変こそは、上述の“間島出兵”を「より大規模」に、中国東北部の全域に広げたものに他ならず、満州における朝鮮民衆の独立運動を弾圧し、そうすることによって朝鮮支配の「安定」をはかり、同時にソ連と中国革命に対する「牽制的前哨基地」として、満州を支配し、その地の富と資源をうばい、「恐慌の泥沼」から脱出しようとしたものでした。
<参考資料>
・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂
<ツイッター>
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https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As
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