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・敵対と孤立 「板挟み」となった李垠

 

 

『旧皇族』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E7%9A%87%E6%97%8F

 

カイライ皇族のジレンマ

 

 

李王世子としての李垠は、こうした現実をどう受けとめたであろうか。

 

十一歳のときから日本皇族という名の檻に閉じこめられ、すべてに目隠しをされて育ってきただけに、彼は自分をふりかえって見ることができなかった。

 

<日本>留学当時、李垠に同情の眼を向けた朝鮮民衆も、やがて日本軍人の制服を着用し、軍刀を吊った彼に“民族反逆者”の姿を感じるようになった。

 

彼はどちらを向いても、冷たい視線を浴びるよりほかなかった。

 

毎月一回の“皇族会合”のときに顔を出す李垠殿下の席は、いつも末席にきまっていた。

 

いわばカイライ皇族にすぎない。

 

その彼は、宮様特有の言葉づかいに困惑したのだ。

 

宮様の会合に行くと「ご機嫌よう、きょうは御元気で・・・・・・」と定まった一語を交わすと、あとは何も言うことがなかった。その言いまわしや敬語の羅列は外国語よりも難しい。しかも皇族同士の挨拶には必ずセリフもどきの応酬があり、口上争いが行なわれる。

 

つまり宮家コトバを豊富に知らないと、「あいさつ負け」をして、村八分のような目にあってしまうのである。

 

また彼は殿下と呼ばれる身分でありながら、新聞や雑誌の活字に怯えつづけた。

 

‐朝鮮最後の『クラウンプリンス』李垠<イウン> その6(高宗国葬と三・一運動『幻の独立』)‐

 

とくに三・一運動以来、日本ではやたらに「不逞鮮人」と書き立てたので、その活字を見るなり彼は一日中不愉快であったらしい。

 

方子妃とて同様であろう。

 

 

『梨本宮守正王』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%A8%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E5%AE%88%E6%AD%A3%E7%8E%8B

 

そこで梨本宮守正王が、<マスコミの差別的朝鮮バッシングに>

 

「青二才めが何を言うか。なんと言おうと朝鮮は古代日本文化の先導者ですぞ」と娘<方子>や婿<李垠>のために弁じたとか。

 

これで李垠の心の傷が癒えるわけもなかった。

 

また、李殿下には面会の自由もなかった。とくに、外国人や朝鮮人と語りあうことを極度に制限された。これは、彼の人間形成に大きな影響を与えた。

 

 

『呂運亨<ヨ・ウニョン>』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E9%81%8B%E4%BA%A8

 

婚礼の少し前、独立運動の闘士呂運亨<ヨ・ウニョン>が来日して李垠殿下に面会を申し込んだことがある。呂運亨は上海に樹立された朝鮮<大韓民国>臨時政府の外交部長であり、日本側から見れば“暴徒の頭目”であったが、三・一運動を契機に懐柔策<斎藤総督の『文化政治』>に転換した日本政府は、彼を賓客として東京に招いたのである。

 

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

 

といって、呂運亨は不敵にも帝国ホテルへ泊まり込み、日本の侵略政策を堂々と攻撃して、朝鮮は必ず独立すると気炎を吐いた。

 

各新聞は一斉に「不逞<ならず者>、帝都に現わる」と書きたてたが、その呂運亨が李垠邸へ、ぜひ殿下に面会したいと電話で申し込んだ。

 

 

『李垠邸宅』 (ジャパンアーカイブスより)

 

https://jaa2100.org/entry/detail/061092.html

 

この電話に朝鮮出身の事務官高義敬<コ・ウィギョン>がが取り次いだが、日本人事務官の栗原広太は憲兵隊に急報した。そこで李垠邸はたちまち憲兵に包囲され、高事務官は呼び出しをうけて、「王世子殿下といえども呂運亨一派と脈略があればただではおかん。あなたがその橋渡しをするなら不逞鮮人と認めるぞ」と一喝された。

 

それ以来、李垠殿下は朝鮮人を避け、朝鮮と名のつくものを敬遠するようになったといわれている。

 

また、映画や芝居の見物にしても、少しでも政治的内容を持つものは側近によって制限をうけた。自然界の闘争をえがいた猛獣映画を見ることさえ自由にならなかった。こうした目かくし教育のために、彼はとうとう朝鮮の歴史はなに一つ知らずに成人したのである。

 

日本側が李王一族に対してとった態度は、身分や地位を与える一方、厳重な監視と束縛によって外部との接触を断つという方針が貫かれていた。

 

 

『의친왕 義親王<ウィチンワン> 李堈<イ・ガン> 』 (韓国語Wiki百科より)


https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EC%A0%9C%EA%B5%AD_%EA%B3%A0%EC%A2%85

 

これは李垠ばかりでなく、彼の中の兄にあたる李堈公はソウル<旧漢城・京城>の自邸を抜け出し、上海の臨時政府に走るべく、貧農の姿に身をやつして汽車で北上するという事件があった。

 

総督府は驚いて政府に走るべく、全土に非常線を張り、国境の安東駅で彼を押えた。

 

その結果、日本政府は朝鮮軍司令部付の陸軍中将という肩書を彼に与え、優遇すると見せかけて李堈公の日常を完全に拘束した。

 

※「朝鮮軍」とは、在朝鮮駐屯の日本軍の総称。1945年2月1日に解体され、38度線以北の日本軍を「関東軍の指揮下」におき、以南の軍隊を「大本営直轄野戦軍である第一七方面軍の指揮」となる

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編1(その歴史と38度線)‐

 

彼は李王拓<純宗>と垠殿下のあいだに挟まれた不遇の生い立ちという事情もあって、李王一族には珍しい剛気な性格であった。それだけに彼の上海脱出が成功していたなら、上海の臨時政府は国際的な評価をうける存在になっていたかもしれない(千葉了著『朝鮮独立運動秘話』)。

 

朝鮮王世子でありながら朝鮮人を恐れなければならなかった李垠殿下にとって、関東大震災の“鮮人狩り”は衝撃的な大事件であった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その29(関東大震災と朝鮮人虐殺)‐

 

 

『1923년 간토대지진 당시 거짓 보도와 경찰 및 자경단의 조선인 학살. <1923年 関東大震災当時の虚偽報道と警察また自警団の朝鮮人虐殺>』

 

(반도에서 온 조선 난민들 품은 일본 교회[일본 기독교 현장에서] 탄고미야즈교회 이야기<半島からきた朝鮮難民をかくまった日本の教会[日本キリスト教の現場から]丹後宮津教会のエピソード)

 

https://www.newsnjoy.or.kr/news/articlePrint.html?idxno=218582

 

 

『▲ <매일신보>(1923.9.10.)가 ‘조선인 폭동설’을 보도하고 있다.<▲毎日新報>(1923年9月10日)が‘朝鮮人暴動説’を報道している』

 

출처<出典>: https://qq9447.tistory.com/179 [이 풍진 세상에]

 

震災当日の夕刻からさまざまのデマが乱れ飛び、関東一円で六〇〇〇名以上の罪なき朝鮮人が軍隊、警察、自警団などによって虐殺された。

 

「朝鮮人が火をつけて歩くそうだ」

 

「井戸の中に毒を入れた」

 

「鮮人と<共産・社会>主義者が暴動を起こすらしい」

 

‐東アジアの今とこれから その15(大正デモクラシーの終焉と関東大震災)‐

 

※「鮮人」とは、朝鮮人・韓国人に対する劣悪極まりない差別用語

 

流言飛語は李垠夫妻の耳にも入ってきた。新聞までが「房総半島に朝鮮人二万人上陸」と報じ、戒厳司令部が置かれて「朝鮮人を殺害しても差し支えなし」という狂気の布告が発令された。

 

李垠殿下は自分に襲いかかってくる二つの“危害”を感じておののいた。

 

一つは朝鮮人である以上、やがては自警団の竹槍によって血祭りにあげられるのではないかという恐怖と、もう一つは“暴動を起こした”社会主義者や朝鮮人が“反逆者”である自分を生かしてはおくまいという不安であったらしい。

 

李垠夫妻は青山の梨本宮邸へ逃れ、さらに宮城<皇居>に入って難を避けた。

 

 

『순종 융희제의 장례식<純宗隆煕帝の葬儀>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EC%A0%9C%EA%B5%AD_%EC%88%9C%EC%A2%85

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その30(錯綜する「独立論」と『六・一〇万歳運動』)‐

 

それから三年後の一九二六年六月、長いこと病床にあった兄李王拓<純宗>が死去した。これによって李垠は「李王」を襲名し、李王垠と名乗ることを許されたが、もはや形骸以外のなにものでもなかった。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 204~207頁より

 

 

・「幽閉」 「洗脳」 「虐待」 にまみれた環境

 

 

幼いころから、伊藤博文に連れ去られ、閉鎖的な日本皇族の「鳥かご」の中で、李垠の立場は、並の人間なら耐えられぬ状況であっただろう。

 

親兄弟から切り離されその死に目すら会えぬ「非人道的境遇」で、関東大震災における朝鮮人虐殺の悲劇や、自身が朝鮮と日本の「板挟み」的状況に、普通なら発狂してしまうが、一人の人生をこうも狂わせ翻弄した日本側の罪は、計り知れないものを感じる。

 

先に触れた、憎悪先導による虐殺もそうだが、この時代の日本はもはや「消え去って良いレベル」であり、実際、数十年後に大日本帝国は木っ端みじんに崩壊した。

 

 

『れいわ新選組の大西つねき氏が「日本人は天皇制を卒業する日がくる」と発言した件』

 

https://www.youtube.com/watch?v=37ODFnaQUmc

 

しかし、天皇を含めた旧体制は未だ維持され、お子さまレベルの稚拙な外交を展開する首相が、現在も権力の座に居座り、大多数の無関心な国民をみれば、バカにされても仕方ないのが普通だ。あまつさえ、それを「日本国民は、天皇家や陛下を命がけで守っていかないといけない」などと、たいそうな愚論を押し付けをする方がいる始末だ。

 

他国の君主の命脈を「ぶっ壊して」おいて、どこに自国の王家を守る「義務」があるのか。

 

‐福沢諭吉の思想をたどる(日本軍国主義の淵源)‐

 

たかだが、80年ぽっちの大日本帝国の「浅い伝統」に、多くの人々の自由と権利を蔑ろにされては、こっちもたまったものではないが、いかにその洗脳が恐ろしいものなのかは、マスコミを含めた、あらゆるメディア媒体で、恒常的に垂れ流された結果は、決して軽くみることができない事実なのです。

 

‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐

 

これでも「殿様気分」で、批判を嫌うとしたら論外であろう。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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