前回の記事

 

‐東アジアの今とこれから その14(『徴用工』以前の朝鮮人労働史)‐

 

 

この時期の日本と中国との連帯はどうか。

 

その「萌芽」が見え始めたのは、いわゆる「対支非干渉運動」からです。

 

当時中国最大の労働者闘争である、1923年の北京=漢国鉄道会社組合『2.・7ストライキ』への支援運動によって始まり、同組合は2月1日鄭州で成立大会を開きましたが、軍隊と警察によって会場を壊され集会は禁止、そこでゼネストに入り、時の軍閥政権の長、呉佩孚(ごはいふ)は、同月7日に多数の労働者を虐殺する大弾圧を加えました。

 

結果、全国の鉄道労働者や北京市民が抗議に立ち上がり、後の国民革命への力を養う重要な契機となりましたが、この運動について、日本の関西労働者同盟は同年4月1日に以下のような抗議文を、中華民国総統宛てに送りました。

 

支那京漢線従業員のストライキに対し、支那巡査が無理解にも百余名を虐殺または傷付けたことは、等しく労働者として忍び難いことであるから、大会の名を以て支那政府および軍閥に抗議を申し込み、一方同志の檄を飛ばし支那公民館に示威運動を起こしては如何

 

これより先だって1922年、23年と「日朝民衆連帯のたたかい」は一応の開始を見ましたが、実際のところは、多くの矛盾を抱えたものでした。

 

シリーズを通して、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、この時期、朝鮮人を共産主義者も労働運動指導者も「鮮人」と呼び、日本と朝鮮の労働者運動を「日鮮労働者の提携」と呼んでいます。

 

「鮮人」とは、日本の支配階級が朝鮮を植民地支配するなかで作った、朝鮮人を蔑んで使った言葉であり、そうした支配体系を運営するための「ヘイト稼ぎの装置」だった。

 

当時、朝鮮人も国を併合されて「日本人」であったにも関わらず、彼らと日本人の団結を恐れた政治的支配者たちが、「分断」を持ちこんで、明確な「差異」を分けた。

 

所謂これが『分断統治』というものであり、日本人の「諸々の不満」を、朝鮮人にぶつけさせることによって、ガス抜きをしたり、日本の一般民衆にしても、たとえ経済的に恵まれぬ「弱者」であろうと、それより下に朝鮮人の身分制度を作ることによって、自分の立場を優位なものだと「錯覚させる」のです。

 

こうした、当時の学校教育宣伝マスコミによって、徹底的に刷り込まれ、一種の「洗脳状態」におかれた日本人は、右も左も中道も、似たような思考に陥り、ごく一部の例外をおいて、支配者は『朝鮮人を蔑む平均的日本人』の創造に成功したわけです。

 

以下、日本の革命運動の中にも持ち込まれ、「当時の日朝連帯」というものは、コミンテルンの指導、援助を契機に始まったその運動が、「日本民衆のもの」として消化されようとした時期であったことは否めません。

 

時の在日朝鮮人指導者・金若水(キム・ヨンス)は、朝鮮人の立場からみた日本人に対する批判希望を次のように述べています。

 

僕にはこの場合に(台湾、朝鮮、民国、日本の同志が一緒に会合して事実談をする)、・・・・・・台湾、朝鮮、民国の同志の談話の声が何となく哀調を帯びてなんだか日本の同志に訴へるかに見へ、又日本の同志も、これを無我の同情で聴取するが如く見ることは、僕には甚だ不愉快である。

 

日本のブルジョア階級は、何故あんな人間以上の権力を持ってゐるのだらう?それは言ふまでもなく、日本民衆が、彼等ブルジョア階級の生活を中心としたすべての鉄鎖に完全に縛られて、一種の道具化した結果である。即ち無産階級の無智、無力に乗じて、台湾を〇〇し、朝鮮を〇〇し、更に支那を脅迫するものである。

 

されば、問題はただ日本の民衆が日本のブルジョア階級と分離することに帰着するのであって、一切の哀語は無用である。

 

彼等は、須らく(すべからく=当然)力を合して、一時も早く、日本の民衆とそのブルジョア階級との分離をは早むべきである。

 

この意味に於いて、僕は日本の同志に切望する。暫らくその無我の同情を止めて、決死的努力を以て、ブルジョア階級に迫らなければならない。

 

『進め』、1923年2月号

 

 

つまりこういうことでしょう。

 

日本人自身が、お高くとまっている。

 

朝鮮や中国の人たちが「必死で」現状の酷さを訴える傍ら、それを「余裕を持った態度」で聞いている様を眺めると、それが本当に『真なる連帯』へと繋がるのかと、金若水は疑問を呈したわけです。

 

ありとあらゆる「社会資本」を持ち、「情報発信手段」も豊富で、なおかつ「人材」にも有り余って、さらには「法律」まで作り、国の財の配分すら決定できる、金若水が『ブルジョア階級』とよぶ行政側(権力者)としては、そりゃ強くて当たり前です。

 

反面、私たちは彼らの作った「囲いの中」で暮らす、ひどい言い方をすれば「家畜」のようなもので、勤める企業しかり、お店でも、工場でも、その他諸々の職業体系にしろ、実に色々な『縛り』の中で、日々の生活資本を享受するのであり、常識的に考えて「逆らえるわけがない」のです。

 

これはちょっとドライに見すぎた結論かもしれませんが、いずれにしろ、私たちは、そうした「大なる社会システム」の中で暮らす、一小市民であることは変わりがない。

 

まあ、ビルゲイツや孫正義レベルの、国家レベルの金持ちなら別ですが・・・。

 

以下の雑感でもって、金若水が述べたような「日本の民衆とブルジョア階級との分離」なんてものは、そもそもにして不可能に近い。だからズルズルと引きずられていき、後の日中戦争やら、アジア・太平洋戦争でアメリカと戦争をし、原爆投下で国は破滅。それからというもの、半世紀以上に渡ってまで『外国軍』に居座られ、主権まで取り上げられるに至ったのです。

 

 

ここで話を再び戻します。

 

いずれも朝鮮民衆の解放闘争の高まり、それに基づく日本民衆の闘争の発展と、日朝両国民の連帯が、日本労働総同盟など労働者階級と民衆の組織的な運動として発展しようとしたことは、日本の支配階級にとっては、我慢のできないことでした。

 

1923年の第4回東京メーデーは、「朝鮮人労働者も参加したので官憲の態度は横暴を極め、検束者の連続で場内は殺気が漲った」としています(誠文堂『社会科学講座』第三巻、『日本メーデ小史』)。

 

関東鉄工組合の中島千八は、その感想を『メーデーを了えて』という手記で、次のように書いています。

 

演説会場及び更新中の官憲の狂暴もまた言語に絶するものがあった。

 

殊に僕等と一致の行動を取ってゐるにも拘らず、朝鮮人と見れば、一人残らず検束しようとした当局の態度は、僕等をして将来に於いて此反動として起こるべき不慮の不祥事を考へさせたほどであった

 

『赤旗』、1923年6月号

 

 

『不慮の不祥事』は、これから4ヶ月後の関東大震災にて起こります。

 

 

震災直後の様子(1923年 大正12年)

 

つぶやき館 『亀戸事件、-関東大震災直後に頻発した虐殺事件の一つ』記事より

 

https://madonna-elegance.at.webry.info/201408/article_3.html

 

日本の政治権力者や軍隊上層部をはじめとした『支配者階級』は、大震災の混乱に乗じて「社会主義者と朝鮮人が暴動を起こす」というデマを喧伝し、それが『亀戸事件』『大杉事件』へと発展していきます。

 

結果、社会主義者、労働運動指導者を惨殺。さらには6千名以上の朝鮮人、3百~6百名あまりの中国人を虐殺しました。

 

 

✱関東大震災とは何か、-そのもたらした悲劇

 

大正12年9月1日正午前、関東地方は相模湾の北西部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が起き、東京、横浜を中心とする関東地方に壊滅的な被害を与えた。東京、横浜での家屋の倒壊の被害も甚大だったが、続いて起こった火災による被害が致命的であった。

 

東京では全市の60%以上もの40万戸以上が倒壊、焼失し、罹災者は340万人余り、9万人以上が死亡した。物的損害額は計り知れず当時の物価水準で100億円以上との推定もある。交通、通信は途絶え、新聞社で残ったものは東京日日、報知、都の三紙に過ぎず、これとて通信、交通網の壊滅で報道の伝達は困難を極めた。

 

このパニック、情報の断絶によって不安にかられての集団被害心理が生じ、数知れない流言飛語が飛び交った。

 

最初は、「富士山が爆発した」とか「大津波が来る」、「摂政宮が行方不明」などというものがあり、やがて「不逞朝鮮人」、-「不逞朝鮮人が井戸に毒を入れる」、「徒党を組んで放火して回ったので火災の被害が拡大した」など根底にある民族差別が露呈したものが顕著となった。

 

9月2日の午後になると警視庁がこの流言飛語の火に油を注ぐような警告さえ出した。「鮮人中不逞の挙についで放火その他狂暴なる行為に出ずる者」があるから、警察は厳重な取り締まりを行うと宣言した。

 

これが警察、軍隊の通信網と新聞によってたちまち全国に広がった。流言飛語の発生地点は横浜とも言われる。横浜の被害は東京を上回るものであり、全市が壊滅してしまった。刑務所も消失し、囚人は逃走した。この囚人が東京に向かい、ついには「鮮人襲来」にまで発展したのではないか、-との推定もある。さらに8月29日が日韓併合の記念日で韓国人には国辱であり、9月2日は「国際青年デー」で早くから警察は警戒態勢を敷いていた。基本的に警察が流言に飛びつく要素もあり、日本人の加害者意識が未曾有の震災によって襲撃される、-というパニック心理になった。

 

かくして政府は戒厳令を敷いた。9月2日のことであり、3日には福田雅太郎大将が戒厳令本部司令官に就任した。

 

各地で在郷軍人会、青年団などのよる自警団が次々と結成され、自警団は日本刀、竹槍、鎌などで武装していた。各地に検問所を設けて通行人を尋問した。濁音が言えない者とか「ラリルレロ」の発音が不明瞭な者は警察に突き出したり、武器で殺害も相次いだ。軍隊、警察もこれらの殺害に加担した。流言を信じていたのである。

 

しかし9月3日になって流言はほとんどデマであると判明し、警察は逆に自警団の行き過ぎに対し、迫害中止命令を出したりした。

 

しかし一旦,火のついた集団パニック心理は容易に終息せず、殺害行為が終息したのは9月7日頃だとされる。

 

具体的に迫害による朝鮮人死亡者数は、「後藤新平文書」では233名、吉野作蔵が朝鮮罹災同胞慰問団からの調査によると2613名という。実際の数は把握できておらず、遙かに多いとの見方が支配的である。

 

❐ 亀戸事件

 

このような朝鮮人がこの機に乗じて襲撃してくる、-という流言飛語のさらなる思い込みで「社会主義者が裏で糸を引いている」という流言が生まれた。

 

その最初にして最大の事件が「亀戸事件」である。9月4日夜から5日の早朝にかけて亀戸署に拘引中の平沢計七、河合義虎 、鈴木直一、北島吉蔵、山岸実司、近藤弘三、加藤高寿、吉村光治、佐藤 欣次など9名の社会主義者、労働運動家たちが軍隊の手にかかって殺害されたという事件である。

  

当局は最初、この事件を徹底して隠蔽しようと図って、遺族には「もう釈放戍している」などと見え透いたウソをついていたほどだった。

  

しかし10月10日になって隠しきれないと見て亀戸署から発表があった。「震災当時、平沢らは南葛労働組合の本部である河合宅の屋上の上がっ て、革命歌を高唱し、不穏の行動が認められたため拘束した。

 

しかし9月4日夜検束者の中に怪しい声をたてたり、足踏みをする一団があり、革命歌を歌って騒いでいたため、ついに軍隊の応援を求めた。軍隊がそれら9名を留置場から引出して刺殺した」というものであった。

  

警視庁の正力松太郎官房主事も同趣旨のコメントを行っている。しかし正力は、・・・・・「軍隊側からのこの行動は衛戍勤務規則に違反すせるものへの当然の処置であると報告が来ている。警察は留置場から引き出すまでは手を貸したがそれ以後の行為には一切、関わっていない」

  

陸軍当局は「衛戍勤務令12条による当然の処置と認められる。取り調べは師団側と検事局、警察のもとで行ったので疑問はない」と鈴木法務官が発表した。

  

司法省も手を下したのは田村騎兵少尉とその部下であることを突き止めたが、すぐに調査を終了した(法律新聞2172号3~4頁)

 

すべて発表は全く一方的であり、真相解明は行われなかった。責任者の追及もなく全てが闇に葬られてしまった。

  

しかしこの事件が徐々に内外に知られると政府も完全無視は出来なくなり、その追及の手を民間の自警団に向けていった。軍隊、警察の責任は全く問われなかった。自警団だけ追及するのは本末転倒との批判も起きたたため結果として起訴された自警団も多くは執行猶予刑で懲役4年が最も重かった。

  

この風潮はその後も一貫し、甘粕事件でも甘粕を「国士」と持ち上げる者も多く、裁判も懲役10年で終了、実際はごく短期で甘粕は出所した。

  

亀戸事件は実質的に司法処理に乗ることはなく全てが隠蔽されたと言ってよい。いまもって真相は謎である。

 

しかし当時の関係者の調査から、平沢が屋上で革命歌を歌ってたなどというのは全くの捏造であり、実際は被災者救助のため夜警団に出ていたのであるが、9月3日抜刀した警察に踏みこまれて拘引されたという。(法律新聞2172号4頁)

 

さらに亀戸署内で騒いだこともなく、手を縛られて無抵抗な状態に置かれていた。

  

✱現在、残っている亀戸事件の写真では殺害された者は斬首されている者が多く、その惨殺の様子は戦慄である。関東大震災後、続発した虐殺のまさに代表的なものである。

  

総同盟は抗議活動を行い、自由法曹団の布施辰治弁護士は、司法処理を政府に迫った。法律新聞も当局の発表は全く信用できないとして紙面を割いて抗議を行ったが何の意味もなかった。

  

それどころか、亀戸事件は以後の社会主義、労働運動弾圧に政府に極めて都合の良い状況を生みだした。ここから甘粕事件も生まれたと言える。


参考文献「日本政治裁判史録」 編集代表:我妻栄

 

同 『同』記事より

 

https://madonna-elegance.at.webry.info/201408/article_3.html

 

 

生きたまま「斬首」って、イスラム国かよ。。。

 

これにより、日本の革命運動に深刻な打撃を与えました。

 

当事件を境に、日本帝国主義の社会主義者と朝鮮人に対する「敵意」が、どんなに恐ろしいものか。それにより洗脳された「朝鮮人敵視」と「蔑視観」を常日頃から抱く、一般民衆の性質がどれほど怖いものであるかを、脳裏に焼き付けられます。

 

最後に、社会主義者はこう綴っています。

 

大震災中に於ける事件を動機として、一般鮮人労働者は内地労働団体に頼むに足らず、鮮人問題は唯鮮人の団結力のみによって解決する外途なしとの叫びが強くなってきた。

 

松本竹二 『最近の我国社会運動』

 

<参考文献>

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・つぶやき館 『亀戸事件、-関東大震災直後に頻発した虐殺事件の一つ』記事


https://madonna-elegance.at.webry.info/201408/article_3.html

 

 

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