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・大韓帝国 皇太子 「日本」へ行く

 

 

『満州(通報艦)』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E_(%E9%80%9A%E5%A0%B1%E8%89%A6)

 

 

生ける戦利品

 

 

伊藤博文に付き添われた少年皇太子の姿が日本軍艦「満州丸」の中に消えると、仁川埠頭<インチョンふとう>を埋めた官女たちは声をあげて悲嘆の涙にくれた。

 

かくて、一行が新橋<東京>に到着したとき、新橋駅頭には、日本の皇太子<後の大正天皇>、皇族、各閣僚、両院議長、軍部首脳をはじめとする朝野の名士一千余名が立ち並んで、少年を歓迎した。一九〇七年(明治四十年)十二月十五日昼すぎのできごとである。

 

日比谷公園では野砲の列が二〇発の皇礼砲を発射し、近衛軍楽隊は奉迎の曲を演奏した。新橋から宿舎芝離宮に至る沿道には数万の群衆が人垣をつくり、近衛兵が整列して警護にあたるといういかめしさであった(読売新聞社刊『日韓併合小史』一九一〇年)。

 

韓国<大韓帝国>の皇太子とはいえ、わずか十一歳の留学生を出迎えるにしては、あまりにも異様な歓迎ぶりであった。

 

それは大げさな出迎えというより、“計略の成功”を祝う日本政府の祭典と見てよいかもしれない。

 

王城<皇宮>の奥深く、優しい官女たちの手で育まれた韓国王子<皇子>は、異国の一夜に泣き濡れたが、その翌日、伊藤博文は少年<李垠>を伴って参内し、明治天皇と皇后に拝謁した。

 

 

『明治天皇(睦仁)と昭憲皇太后(勝子)』

 

要するに、伊藤は百年の計を胸に秘めて、生きた“戦利品”を捧げたといえようか。皇后はあどけない少年を一目見るなり、「あたあさまは、どのようにお嘆きなさったことでしょう」といって、手をとって慰めたという。

 

次の日には明治天皇と皇后が芝離宮を訪れ、李少年の寝所や居室を検分し、膳所にまで細かい注意を授け、「寂しくなったら、いつでも宮城へおいで」と、やさしい言葉を残して帰って行った。

 

少年の心情は、このときから日本皇室につながれたようである。皇后の姿に母厳妃の像を求め、オモマーマ(母君)が恋しくなると、参内をせがんだ。皇后もそのたびにさまざまのおみやげを与え、その数は東宮<皇太子(大正天皇=息子)の宮殿>よりも遥かに多かったといわれた。

 

翌年二月、李少年の住居が定まった。麻布鳥居版の元佐々木邸を宮内省<当時>が買い上げて修築したものである。それ以来、李垠は「鳥居坂の宮さま」と呼ばれるようになった。

 

伊藤は李少年の待遇について大いに気を配り、宮内省に交渉して「日本の皇太子と全く同様」に扱うよう主張し、それを実行させたが、肝心の“留学”に関しては少しも誠意を示さなかった。

 

「西洋の文物を学ぶ」ことを主旨として連れ出したにもかかわらず、李少年の教育はすべて“日本精神”に裏うちされ、学習院、陸軍幼年学校、帝国軍人というコースが与えられた。伊藤の最大の違約は、ようやくめぐって来た初の夏休みに、彼の帰省を許さなかったことである。

 

望郷の思いをまぎらわすために、伊藤は日本最初の愛用車である大倉喜八郎<大倉財閥>の自動車に少年を乗せて湖畔をドライブし、東京では二頭だての馬車を仕立てて名所見物をした。

 

翌年もまた、伊藤は帰省を許さなかった。その代りにみずから李少年を連れて東北と北海道を旅行した。その姿は最愛の孫をいつくしむ老爺のようであった。また、伊藤はその足で広島県に赴き、呉軍港を見学させて、少年の心に日本軍艦の威力を感得せしめることも忘れなかった。

 

かくて李少年に伊藤博文の息吹きと体温が伝わりはじめたが、その二年後、伊藤はハルピンで朝鮮独立の志士安重根に狙撃された死んだ。

 

 

『ハルビン駅で暗殺される伊藤博文』

 

https://thestrategybridge.org/the-bridge/2017/10/17/fateful-failure-the-lost-opportunity-to-terminate-the-kim-il-sung-dynasty

 

「朝鮮に於てすら諫臣絶へず出て、伊藤候に投石するもの絶へず出て居れり、憂世の士少なからずと見ゆ、ドノ国の歴史を読むも吾人(我ら)は遂に憂国愛国の士、義憤慷慨(ぎふんこうがい=正義に外れたことなどを、激しく憤り嘆くこと)の烈士の跡を絶てる時代を見出す能(あた)はざるなり」

 

日本の社会主義者雑誌 『光』1906年7月30日 

「革命の歴史が与ふる教訓」より

 

‐東アジアの今とこれから その7(伊藤博文暗殺)‐

 

伊藤への思慕と事件の衝撃は、李少年にとって複雑なものであったにちがいない。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その18(日韓併合は朝鮮人の「希望」だったのか)


 

『1910년 8월 25일 한일 합병이 양국에서 조인되어 정식으로 선언되었다.<1910年8月25日 韓日併合が両国で調印され正式に宣言された>』

 

http://kcm.kr/dic_view.php?nid=38287

 

好機至れりとばかり、陸相寺内正毅によって韓国併合が強行され、一九一〇年(明治四十三年)八月、李王朝五〇〇年の歴史に終止符がうたれた。韓国統監部は朝鮮総督府に変わり、寺内が初代総督に就任した。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 184~186頁より

 

 

・寵愛の果てに操った 伊藤博文の「したたかな戦略」 

 

 

親の愛を求める「ひとりの子ども」を、異国へ連れ出し、そこで「第二の親」を演じた伊藤博文について、当時の李垠にとって「絶大なもの」であったことは、想像に難しくはない。

 

その後における、彼の人生についても「さまざまな影響」を及ぼしたのは、間違いないだろうし、国が奪われ自身は「李王世子」として、父の高宗皇帝は「李太王」兄の隆熙帝は「李王」日本皇室に「組み込まれ」、これだけ考えても、日本は朝鮮半島に対して「大きな禍根」を残したことは間違いない。

 

国富の収奪や、人的被害と合わせて、絶対に忘れてはならないし、一角の礼儀ある国ならば、この問題と真正面から向き合い適切な謝罪と処置を、あらゆる方面から、未解決なものも含め、恒久的に取り組むのが、(特に北東アジアにおいて)自国の品位や国益を増すことに繋がるのである。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

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https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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