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・『日韓併合』に利用された 韓国ラストエンペラーの子ども 

 

 

『이은과 이토 히로부미<李垠と伊藤博文>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9D%98%EB%AF%BC%ED%83%9C%EC%9E%90

 

9 朝鮮最後の皇太子・李王垠殿下の運命

 

━朝鮮統治のいけにえとなった李王世子の数奇な運命の実相

 

 

一九七〇年五月一日、ソウル市内の病院で七十三歳の李垠氏が息をひきとった。九年前に脳血栓で倒れて以来、身動きもならず、一語も発することもなく世を去った。その一週間後、秩父宮妃の一行五名が、葬儀参列のためにソウルを訪ねた。

 

この異例の弔問は、死者と日本皇室との絆を物語っている。

 

柩の人は、日本敗戦の一九四五年八月十五日まで「李王垠殿下」と呼ばれた皇族の一員であった。彼は大韓帝国皇太子であったが、十一歳のとき人質同様の「日本留学」を強制され、身をもって「日韓併合」という悲劇の主人公を演じた。

 

日本皇族の教育をうけて成人した李垠は日本側の「国家百年の計」に従って梨本宮方子姫を妻に迎え、やがて陸軍中将に昇進して軍事参議官に列せられた。が、日本帝国の敗北とともに特権層は廃止され、彼も全てもぎとられてしまった。

 

朝鮮半島に平和が訪れ、解放と独立を喜ぶ民衆の叫びは全土にこだました。

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 261頁より

 

そして一個の朝鮮人に戻った彼だが、その帰るべき祖国はなかった。

 

かの李承晩大統領が、彼の入国を拒否したためである。

 

そして念願の帰国が実現したのは朴政権になってからのことである。

 

かくて、金浦空港に到着したものの、自分の足で一歩も故国の土を踏むことなく、担架のまま病院に運ばれ、いわば生ける屍であった。その数奇な生涯こそ、約四〇年間にわたる日本の朝鮮統治の落とし子であった。

 

 

“明治の元勲”半島に君臨す

 

 

明治の日本政府は、東洋の平和、韓国<朝鮮>独立の名のもとに清国に戦いを挑んで勝利をおさめると、韓国皇帝高宗の妃(閔妃<明成皇后>)を殺害して王宮に火を放ち、朝鮮半島侵略の足場を築いた。

 

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『伊藤博文』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8D%9A%E6%96%87

 

一〇年後、対露戦争に勝った日本は、保護条約を押し付けて韓帝国を隷属化し、伊藤博文みずから「韓国統監」に任じて、副王のごとき権勢をふるった。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その15(日露戦争と韓国併合)‐

 

この“明治の元勲”はすでに宰相<首相>と枢密院議長を三度ずつ歴任した最大の実力者であり、韓帝国の外交権と干渉権を握って半島に君臨した。

 

 

『大韓帝国 初代皇帝 高宗』

 

https://post.naver.com/viewer/postView.nhn?volumeNo=16538194&memberNo=369800

 

皇帝高宗にとって、伊藤統監は目の上のコブともいうべき存在であった。屈辱に耐えかねた高宗は、たまたまオランダの首都ハーグで開かれた万国平和会議(一九〇七年六月)に三名の密使を送って窮状を訴え、列強の圧力によって侵略者を駆逐しようと画策した。

 

 

韓国名『ハーグ特使事件』(左から李儁<イ・ジュン>、李相卨<イ・サンソル>、李瑋鍾<イ・ウィジョン>)

 

http://blog.naver.com/PostView.nhn?blogId=notenter9&logNo=221266090646&categoryNo=17&parentCategoryNo=0&viewDate=&currentPage=1&postListTopCurrentPage=1&from=search&userTopListOpen=true&userTopListCount=15&userTopListManageOpen=false&userTopListCurrentPage=1

 

だが、この企ては日本の官憲に嗅ぎつけられて、失敗した。

 

「ハーグ密使事件は重大なる条約違反である。大日本帝国は即時宣戦も辞さない」伊藤統監は激怒して高宗を退位せしめ、さらに新条約を強要して<韓国>軍隊を解散させ、内政の権限も手中におさめた。

 

 

『대훈위 국화장경식을 단 대한제국 순종 융희제<大勲位金尺大綬章を授与した大韓帝国純宗隆煕帝>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%ED%95%9C%EC%A0%9C%EA%B5%AD_%EC%88%9C%EC%A2%85

 

そして皇太子の李拓<純宗>が王<皇>位に継いだが、もはや韓帝国は全く骨抜きにされ、有名無実の政権となった。しかも、李王拓<純宗>は若年期に陰謀の麻薬をのまされて男の機能<生殖機能>を失い、子のない身である。

 

そこで、弟の李垠<イ・ウン>(英親王、十一歳)を皇太子に選び、李王宮廷では皇太子妃を選定する揀択<カンテッ>式を行った。ところが、これを知った伊藤統監は、太子妃の決定を“無期延期するように”と申し入れて。かとみると、間髪を入れずに、一つの提案をもちかけた。それは「日韓両国の友好のためにぜひ必要」と、韓国皇太子の“日本留学”を勧めたのである。

 

伊藤統監の提案は、李王宮廷にとって、まさに寝耳に水であった。十一歳になったばかりの皇太子を他国へ留学させるなど、常識では考えられない。父高宗の心の中で煮えたぎるものを抑えて、婉曲に<えんきょくに-おだやかに>ことわった。

 

しかし、伊藤は自己の提案を貫徹させるために、明治天皇の「勅命」をとりつけ、強行手段に出た。

 

母厳妃はついにたまりかねて、「統監、あなたは皇太子を人質にとるつもりか」と詰めよった。すると、老獪<ろうかい-経験をつんで悪賢いこと>な伊藤も、このときばかりは傲慢な姿勢をすてて、諄々<くどくど>と陳べた。

 

「太妃さま。老齢の私はまもなく神に召されますゆえ、心に偽りなく申し上げます。けっして人質ではございません。万一、日本に他意があれば、ご幼君を人質にしなくとも、ほかの手段がございましょう。ご心情お察し申し上げますが、両国の将来を思いますと、どうしても皇太子さまの渡日が必要でございます」

 

意外にも丁寧な口ぶりに、高宗はやむを得ず承諾したが、「毎年夏休みには必ず帰省させること」を伊藤に確約させた。そこで伊藤が「太子大師」を兼任した。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 181~184頁より

 

 

・深すぎる 「歴史問題」

 

 

私たちの国で、「隣国の問題」を語れば、どこかの反日だとか、ミサイル発射だとか、そういう「表層的現象」のみで、自らを『美しい被害者』として、己の正当化に走る、愚か者たちが多い。

 

物事の肝要がスッポリと抜け落ち、むしろ向き合うべき問題から積極的に「逃避すること」によって、これらの陥穽は、より深刻化し、人々の思考の「負のスパイラル」と、分断や対立の「永続化」に直結する。

 

今回のシリーズは、今まで決して「語られなかった」、日本と朝鮮半島の歴史的問題として、ぜひ多くの方々に読んでいただき、過去の行いを認識したうえで、現代の事物を判断する力を蓄えていただくための「素材」ないし「資料」として、活用していただければ幸いです。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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