前回の記事

 

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・併合後 「朝鮮系皇族」として・・・

 

 

韓国併合

 

当時1910年8月30日付の『東京朝日新聞』(第三面)より

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

明治天皇は詔書を発して高宗を「李太王」、最後の隆熙皇帝<純宗>を「李王」、東京にいる皇太子垠少年を「李王世子」と改称し、皇族として待遇すると宣した。

 

 

『「朝鮮人を我が日本国民とし」云々』(1910年8月10日 『国民第一新聞』第一面より)

 

http://isi-taku.life.coocan.jp/newpage5.html

 

だが、李垠の帰省は相変わらず実現しなかった。

 

 

『初代朝鮮総督 寺内正毅』 (Wikiより)

 

https://ameblo.jp/epikutetosu/entry-12463715321.html

 

日韓併合後、朝鮮総督府がおかれ、初代総督には「併合」条約の調印を指揮した陸軍大将寺内正毅(1852~1919)が就任した。

 

総督は、陸海軍大将の中から選ばれ、天皇に直属し、朝鮮に駐留する日本軍(朝鮮軍)を指揮し、朝鮮の内政全般にわたって絶大な権限を持っていました。

 

この軍人総督のもとで、憲兵と警察を一体化した治安機構である憲兵警察制度が完成され、それは朝鮮に駐留する日本軍憲兵隊の司令官が警察総長を兼ね、各道に配置された憲兵隊の隊長が警察部長、将校が警視、下士官が警部を兼ねるというシステムで、「併合」前から義兵闘争など、朝鮮民衆の抗日運動を抑圧するために、朝鮮駐剳(ちゅうさつ=駐在)憲兵司令官秋石元二郎によってつくられたものでした。

 

1624箇所、1万6300人の憲兵や巡査朝鮮全土に分散配置され、憲兵は普通警察事務のほかに「諜報ノ蒐集(収集)」「暴徒ノ討伐」から「日本語ノ普及」「殖林農事ノ改良」「副業ノ奨励」「法令ノ普及」「納税義務ノ諭示(ゆし=口頭や文章で示すこと)」など、大衆の生活の隅々にまで、文字通り軍事警察の支配の網の目を張り巡らせた。

 

この憲兵警察のほかに、一ないし二個師団の日本陸軍が常駐し、海軍二個分遣隊が朝鮮に送り込まれていました。

 

このような日本の支配に、少しでも抵抗しようものなら『朝鮮笞刑令』(1912年3月)をはじめとする野蛮で過酷な処刑が待ち構えていました。

 

たとえば、日本の強制する「陸地綿(アメリカ系綿の一品種)」栽培に消極的だということのみで、朝鮮の農民は手足を縛られ、笞(むち)で打たれる有様でした。

 

このように「恐怖の独裁者」として、寺内朝鮮に君臨することになる。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編8(過酷な植民地経営の実態)‐

 

 

『大韓帝国皇后 순헌황귀비 엄씨<純獻皇貴妃嚴氏>』 (韓国語Wiki百科より)

 

https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%88%9C%ED%97%8C%ED%99%A9%EA%B7%80%EB%B9%84

 

国権を失っては、なおのこと苦情をいいにくい。寺内はそれを見すかして“皇族李垠”の希望を公然と無視しつづけた。

 

たまりかねた厳妃<李垠の母>が寺内に噛みついて「伊藤公との約束」を持ち出し、「約束を守らないのは、あなた方の常套手段ですか」ときめつけた。

 

すると寺内は「常套手段とは何事か」と大声を発し、激しい衝突が起こった。

 

だが、その半年後、厳妃は高熱を発し、腹痛を訴え、「寺内は鬼だ」と罵りながら息絶えた。“腸チフス”と発表されたが、当時、朝鮮では「寺内に睨まれた命はない」といわれていた。

 

虎の形相で恐れられた寺内は極端な武断統治を行い、少しでも反抗する者は極刑に処せられるか、ひそかに消されてしまうのであった。

 

厳妃の死によって、李少年は初めて帰国を許された。留学以来、五年目のことである。

 

しかし、ソウルに帰っても<高宗>父(李太王)との対面さえ自由ではなかった。

 

合併以来、父は徳寿宮に、<純宗>兄李王拓は昌徳宮に別れて住んでいた。これも総督府の分離政策であり、両者の往復は絶えず監視をうけていたのである。

 

‐シリーズ・朝鮮近代史を振り返る その19(続・過酷な植民地経営 強行された土地調査令)‐

 

それから一〇年、朝鮮民衆を土地収奪をうけて塗炭の苦しみを味わいつづける中で、東京の李垠王世子は「殿下」と呼ばれながら成長していった。彼が幼年学校から陸軍士官学校へ進む間に、第一次世界大戦が起こり、寺内は韓国合併の功によって宰相の座についた。

 

‐東アジアの今とこれから その12(『ロシア革命』より日朝中の連帯再び)‐

 

だが「シベリア出兵」に失敗し、国内では米騒動が広がって、さすがの寺内も倒閣運動の鋒先<ほこさき>を向けられるにいたるのである。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 187~188頁より

 

 

・闇に葬られる「過去」

 

 

こうした事実は、決して今の日本の言論界で語られることはないし、人々の記憶からも消えている。

 

李垠を一人の子どもとして、年端もいかぬ少年を、親御から「離ればなれ」にし、母の死に目にも合わせないような所業は、もはや人間のすることではない。

 

仮に、このような「都合の悪いこと」を、すべて明るみにしてしまえば、近代における日本がしでかした罪は、その分断の大きさたるや、もはや筆舌に尽くしがたいものを感じるが、まだまだシリーズはつづくので、引き続きご覧いただけると幸いです。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

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