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・欧州旅行の最後

 

 

スウェーデンを訪問したとき、考古学に造詣の深いスウェーデン皇太子が彼を大歓迎して朝鮮の古代文明を賞賛した。

 

「私は一九二七年に日本を経て朝鮮の慶州へ行きました。古墳の発掘を手伝って古い王冠を発見したこともあります。新羅の文化は東洋古代文化中の第一級のものです」

 

皇太子は秘蔵の高麗陶器を持ち出して熱心に語りかけるが、彼は無表情に黙然と聴き入るばかりであった。その立場上、一言たりとも「朝鮮」という言葉を口にすることができなかった。

 

欧州同行の方子妃は、日本皇族出身として、ヨーロッパの王家間の頻繁な国際結婚に関心を抱いたらしく、その手記に次のように書いた。

 

「欧州各国の王室においては、国際結婚が何の障害もなく当事者または国民の間にスムーズに受け入られる状態であることに深い感銘を受け、うらやましく感じました」

 

東洋では、そんな前例もなく、当人たちが政略結婚として宣伝ゴウゴウと騒がれただけに、彼女は東洋社会と欧州の違いを発見したのである。

 

もはや、彼の中に「民族的アイデンティティ」を確立する機会は何一つなく、自分が「何者か」でさえ、考えることが不可能となっていた。

 

果たして、その先に待っているものとは・・・。

 

 

・『内鮮一体』の象徴 「皇族モドキ」に成り下がった李垠

 

 

皇族として生きぬく決意

 

 

一九三一年(昭和六年)国家改造計画「皇政維新法案大綱」が作成され、天皇親政を翼賛確立するための軍部独裁が叫ばれると、日本の大陸侵略はいよいよ激しさを加え、柳条溝事件(いわゆる満州事変)、上海事変があいついで起こった。

 

だが、李王垠の心は“大正デモクラシー”時代よりもむしろ安定し、一種の落着きを得ていた。

 

軍部の台頭は日本皇室の安定であり、ひいてはそれが自己の安全にもつながる━彼はその論理によって、心のわだかまりを捨て去った。方子妃が九年ぶりに男児を生んだことも、彼の心境を安着させた。

 

「私は日本皇族になりきる。この子のためにも、それ以外の私の生きる道はない」

 

李垠は生まれたわが子を、かすかな自己のわだかまりを清算するキッカケとしたのである。李垠は皇室への忠誠を誓った。彼はみずから進んで日本皇室に“帰化”するハラをきめたのである。

 

彼の住居も鳥居坂から赤坂の壮麗な新邸に変わった。美しい英国風の建築で、現在は赤坂プリンスホテルの旧館として人々に親しまれている。

 

※『赤坂プリンス クラシックハウス(旧・李垠邸)』

 

http://www.tgt-kioicho.jp/facilities/akasakaprince.html

 

彼は毎朝、宮城遥拝<きゅうじょうようはい>を行うようになった。

 

出張先の旅館でも庭に降りて最敬礼をした。

 

やがて彼の忠誠心はホンモノと認められ、宇都宮の第五十九連隊長、士官学校教授部長、旅団長を歴任して、一九四〇年(昭和十五年)には大阪師団長へと栄転を重ねた。

 

軍首脳の中にはこの人事に不安をもつものがあって、和歌山、兵庫に大阪師団の動きを警戒する部隊を配置させるという噂もあったが、こうした疑惑に答えるために、彼はさらに“朝鮮的なもの”との絶縁に努力した。

 

墓参りのために渡朝する機会があれば、彼は必ず志願兵訓練所を訪れて“半島の若人”を激励し、彼らが斉唱する「海行かば」に感激して涙を流したという。

 

一九四三年(昭和十八年)の墓参りのときの印象を、方子妃は次のように述べている。

 

「日本の片腕となって後方守備の任務を果たしている朝鮮の方々を見て、感激が一層深く、深い感謝の念にたえませんでした。二十三年前、内鮮一体という名のもとに李王家に嫁ぎましたが、いろいろな悲劇の中に身を入れて、その理想の実現の難しさを常に痛感して参りましたが、今度朝鮮へ来てみて、その任務の半ば以上を達したような感じを抱きました」

 

李王垠夫妻は、いまや“内鮮一体の象徴”であった。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 211~214頁より

 

 

・李垠への「暫定的総括」

 

政治学者マッキーバー(Robert Morrison MacIver)は、近代日本の政治体制を、以下に叙述した。

 

「君主制がなお存在しているところではどこでも古代の魔術信仰の一部を保持しているが、最も顕著なのは日本で・・・」(秋永肇訳 『政府論』上巻 16頁より)

 

能力や実力で、その地位を勝ち取ったわけでもなく、生まれだけで美化される天皇一族をはじめ、この「統治機構」を作った薩長閥の人間が敷いたレールの「延長線上」に、『一視同仁』『内鮮一体』なるものがある。

 

 

 

『大正天皇(嘉仁)』 (Wikiより)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%A4%A9%E7%9A%87

 

『朕夙(つと)に朝鮮の康寧を以て念と為(な)し、其の民衆を愛撫すること一視同仁、朕が臣民として秋毫(しゅうごう)の差異あることなく、各其の生を聊(いささか)し、均しく休明の沢を享けしめんこと期せり』

 

(三・一独立運動=万歳事件のあと 1919年8月19日より)

 

※夙に(つと‐に)~早くから。以前から/康寧~安寧。やすらかなこと/秋毫(しゅうごう)~わずか/聊(いささか)~少し/休明~君主の徳にあずかること

 

『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房 6頁より

 

 

『第19代内閣総理大臣 原敬』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E6%95%AC

 

朝鮮は即ち日本の版図にして属邦にあらず、また植民地にあらず、即ち日本の延長なり 

 

大正天皇の詔書と同時に出た首相原敬の声明書(1919年8月19日) 

 

『同』 同頁より

 

 

『第2代朝鮮総督 長谷川好道』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A5%BD%E9%81%93

 

朝鮮は即ち帝国(日本)の版図にして其の属邦にあらず、朝鮮人は即ち帝国臣民にして内地人(日本人)と何等差別あるにあらず、随って朝鮮の統治、また夙(つと)に同化の方針に基づき、一視同仁の大義に則り、敢て偏視無きを期せり

 

当時の朝鮮総督長谷川好道の言葉

 

※夙に(つと‐に)~早くから。以前から

 

『同』 同頁より

 

 

『南次郎』 (同)

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AC%A1%E9%83%8E

 

今回徴兵制度の形において内鮮一体の政策は絶頂に達した。顧みれば過去のあらゆる努力はここに達するまでの努力であった

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 250頁より

 

大日本帝国時代「内地(日本)」および「外地(朝鮮)」で行われた代表的なものが「同化政策」

 

以前私が、明治時代の朝鮮観シリーズで示した通り、この時期における日本人の朝鮮人に対する差別意識は、頂点を極めていました。

 

‐福沢諭吉の思想をたどる(日本軍国主義の淵源)‐

 

その政策を一言でいうと、「朝鮮人が朝鮮人であるという意識を捨て、日本人になることを理想とする政策」です。一見すると「日本人と同じ権利を得る」と思いますが、実際は様々な面で制約差別を受けたり、過酷な労働を従事させられた挙句、働く賃金も本来の日本人にまったく及ばないものでした。

 

つまり、この政策がなされた背景は、朝鮮における「独立運動」を完全に挫き、言葉や名前、文化を奪うことによって、完全に「日本人の従順な奴隷」へと飼いならす目的でした。

 

戦前日本で、朝鮮人に行われた主な政策は「同化政策」でしたが、この方針が具体的に表れると、朝鮮人の伝統的な風俗・習慣・言語の無視朝鮮人の民族意識・民族運動の否定日本式の風習や日本語の強要日本人意識(天皇崇拝、神社参拝など)の強制、さらには戦争への「日本人」としての動員ということに繋がっていきました。

 

これが『皇民化運動』の全体像ですが、同化政策から始まって『皇国臣民の誓詞』の朗読を露骨なまでに強制されました。

 

主に小学校では「私共(朝鮮人)は大日本帝国の臣民であります。私共(同)は心を合わせて天皇陛下に忠義を尽くします。私共(同)は忍苦鍛錬して立派な強い国民となります」という誓詞が、中学校以上の学校一般朝鮮人の集会では「我等は皇国臣民なり、忠誠以て君国(日本)に報ぜん、云々」という誓詞が唱えさせられました。

 

 

『強制連行された朝鮮人への「訓示」』 (『同』 251頁より)

 

また朝鮮人の伝統的な白衣(チョゴリ)の着用も禁止され、もはや正気の沙汰とは思われないことが、堂々と実行されました。そして前述の朝鮮人に対する徴用・徴兵が行われ、「日本人」の一員として戦時動員の対象にもなり、朝鮮人を日本人に同化する基本政策からすると、こういうことは何ら不当なものではなく、極めて当然かつ自然のものでした。

 

朝鮮人であることをやめさせて、日本人にすることを、朝鮮人に対する「恩恵の賦与」と考える立場にたつと、民族の伝統を抹殺することが恩恵で、それがひどくなるほど恩恵が大きくなるわけですが、朝鮮民族の抹殺が、朝鮮人を日本人に引き上げることを意識した内容でした。

 

先の大正天皇における詔書や、首相や総督の声明文を読んでも、そこで示されているのは「日本と朝鮮との一体視」であり「日本と朝鮮との対立の否定」です。言い換えれば、朝鮮は属国でなく、朝鮮人は被支配民族でもなく、したがって朝鮮は植民地でないという解釈です。

 

しかしそれは、「朝鮮」や「朝鮮人」の存在を根底から否定し、最初から無きものであるかのごとく、朝鮮は日本の延長であり、その一地域にすぎない。ゆえに朝鮮を一切日本に「吸収する」ことによって、一体になろうとする意識です。

 

つまり李垠自身は、その『象徴』となったわけだ。

 

悲しい生い立ちがあったがゆえ、自己を確立することができず、一種の「アイデンティティ喪失状態」に陥り、そこに日本皇室の「洗脳」が注入され、まったく主体性の欠いた存在となってしまった。

 

ゆえに、少々のわだかまりはあったにせよ、「自己保身」という大きな感情が勝り、日本皇室への「帰化」を、みずから積極的に行うことによって、客観的には『民族反逆者』という立場になってしまったことは否めない。

 

国を奪われ、言葉や文化・風習までも取り上げられ、絶望と屈辱の辛酸をなめる民衆をよそに、彼の取った行動は、自らの立場も含め、大いに批判されることも覚悟せねばならぬのだ。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

・『アジア・アフリカ講座 日本と朝鮮』第3巻 勁草書房

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 

 

 

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