生まれたけど死んでる!!
バシバシ!!
生まれるなりお尻をたたかれていた。
生まれたとき仮死状態だった。
生まれてきて息をしていないのだから
病院の方々も母もずいぶん驚いたらしい。
初めて生まれるこどもが
息をしていないのだから
大騒ぎどころではなかったことは想像できる。
取り出されて
息をしていなかった私は、
お尻をバシバシたたかれて
「おぎゃー」
という産声をあげたそうだ。
これも自分では記憶していることではない。
母や親戚から生まれたときの話をきくと
共通しているので事実として捉えている。
まあ実際の所は母親しかわからないことだから
聞いた話が私にとっての真実と思っている。
胎内記憶の事
幼稚園から小学校にかけて同じ夢を見ることがあった。
広い雲の上で、
同じくらいの年の子がたくさんいる。
私はその中で一人だけ、逃げ回っている。
誰に追いかけられているかはわからないが
悪戯をして
「まちなさい!」
と言われて追いかけられている感じだった。
結局、捕まって、雲の上から突き落とされる。
ふわーっと吸い込まれるような感じは
未だに体に感覚が残っている。
真っ暗な穴の中に落ちていくような感覚でもあり、
明るい雲の上から落ちていくような感じともいえる。
どちらにしても背中から落ちていく感じがしていた。
あるときには落ちて行き
何かの中にスポッと入るような感覚があることもあった。
そんな夢も小学校高学年になる頃にはなくなっていった。
後に体内記憶の池川明先生と出会う。
日頃仲良くしていただいている
耳ツボ神門の飯島敬一先生の紹介だった。
一連の話から、
自分の経験した夢は胎内記憶だったのかとも思っている。
生まれてしまったのに仮死状態で、
雲の上から落とされた私が
スポッっとはまって泣き出したというのは
なかなか興味ぶかい夢との一致だと思っている。
今でも出かけるのが
ものすごく嫌なときが多い。
放っておけば家の中でひたすら
本を読んでいることがよくある。
この自分史も
50章つくるのにほぼ2日で一気に書き
上げた。
同じ事をひたすらやることは
さほど苦にならない性格のようだ。
そんなこともあって
雲の上から飛び出すのを嫌がっていたとしても
自分には違和感は全くない。
またこうした生前のことは
信じる信じないという話になりやすい。
命とは人工では作り出せない神秘的な物なので、
説としてあってもおかしくはないと思う。
もう生まれてから50年以上たっているのだが
この夢は割と最近見たようなはっきりした感覚が残っている。
池川先生のお話をきいたので
夢と現実と性格的な物が一致して
胎内記憶のような感覚になってしまっているかもしれない。
そうだとしても自分の性格と一致しいるので違和感を感じることはない。
生まれた場所に行ってみた
![](https://nohgaku.com/wp-content/uploads/2019/11/img_1440.jpg)
本当はどうだったのか知るすべはないが、
思い立って自分の生まれた場所に行ってみることにした。
ちょうど虚空蔵菩薩の真言を繰り返しているときに
生まれた場所に行ってみるということが頭に浮かんできた。
生まれた病院の跡地は公園になっていた。
物心ついてから生誕の地に来た記憶はない。
それなので自分の意思では誕生以来の再訪だった。
近くに勝光院というお寺があり
なんとなく懐かしさを感じる空気が漂っていた。
この勝光院のご本尊が虚空蔵菩薩だった。
なんともいえない感覚だった。
体が震える体験だった。
このときは生まれるときに、
ここに降りてくるはずだったのに
少しずれちゃったかなという感覚が
湧き上がってきて
隕石のような光がスーと流れるようなイメージが見えた。
今から思えば誕生でこんなことを学んだ
生まれたときの話から
現代に話が飛んでしまったが
記憶があるのは現在の事なので
当時の記憶を思い出す手がかりと
思っていただけると幸いです。
誕生から今年に入ってから
うまくいかないことがあっても
自分が望んでさえいれば
ボンと後押ししてくれる力が働くということを学んだ。
次は「第3章 トイレに落ちるのをこらえていた」に続きます!
いなくなったとおもったらこんな所に!!!私の一番の心配は何だったのか
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