行きたくない!!
自分が嫌だと思っていても
思わぬ縁が潜んでいる事があります。
37年たってから柔道をはじめたご縁が
意味を持ってつながることになります。
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そんな不思議なご縁の元になった
柔道を始めたきっかけからお話しします。
小学校三年生になったとき
「空手バカ一代」というアニメがありました。
このアニメの中で実写の部分がありました。
出てくる大山倍達氏が
ビール瓶を手刀で割ったり、
石を素手で割ったりすることに
驚きと羨望を持っていました。
そんなとき柔道をするように
母から言われました。
空手をやりたかった私は
かなり嫌がりました。
「どうしても行かない」と言い張っていた。
昭和のアプローチでなくなく
力負けし世田谷警察に向かったのでした。
嫌ならい行かなければいいのですが
そんな選択肢はありませんでした。
小学生のときの私の
判断基準からすると
塾にも行ってないのに
習い事をするというのが
受け入れられませんでした。
そんな頭の固い小学生でした。
結局、高校受験の夏期講習以外、
塾は行きませんでした。
さて柔道ですが、
そもそも9歳ではやったことがないですから
やりたいことの選択肢にもなっていません。
「見て」「興味を持って」
「やってみたい」と思って
やり始めるような課程が
飛んでしまうのが私の人生の特徴です。
いきなりやる事になりました。
無理矢理です。
自己主張のつよい小学生でしたから
柔道をすれば少しは緩和されると
母は考えたのかもしれません。
外で遊ぶ事も禁止が多かったので
体を鍛えさせる
愛情だったと思います。
それと柔道特有の体型の人たちが
いること機動隊の隊員が教えているので
暴力を振るわれそうという
勝手な思い込みがありました。
ここでいう暴力というのは、
いじめと言うことではありません。
当時は小学校でも
体罰は普通です。
単純に
先生が増えれば
ぶたれる回数も増えると
思っていたのです。
やり始めてみると
はじめは拒絶するほど
嫌だった柔道ですが、
嫌から普通くらいには
なっていきました。
それでも
タイミングを見てやめると
子どもながらに
はっきり決めていました。
そう決まると
不思議な物で表面的には
嫌がることはほとんどなくなります。
いつ終わるかわからないことを
耐えることは出来ません。
時期が来たらやめると決めたので
それまでは一生懸命やっている
フリをすることにしました。
タイミングは
義務教育が終わるときかなと
漠然と感じていました。
終わりを決めれば頑張れる
よい経験は
日本武道館の大会に出場できたこと。
10歳で武道館デビューです。
また変わった経験は、
警察の教室だったこともあり
移動が金網を張った護送車だった事です。
これはなかなか乗れる物ではありません。
もう一つ嫌だったのは、
母親が近所の人や親戚に
「うちの子はオリンピックでますから」
ということを
冗談交じりに言うことがありました。
その声を聞くたびに
絶対やめるという
気持ちは強くなっていきました。
大人になればそんな冗談は
日常茶飯事ですが
子どもの時は極端に吹聴を嫌ってました。
はじめ毎回嫌がっていましたが、
やめる時期をも決めたので、
やめるやめると騒がなくなりました。
「諦めて続けることにしたかな」
という声も聞こえてきたので、
ある程度成果を出して残念さが
最大限になるときに
やめようと決めました。
かなりひねくれていますが、
これは自分の中にある特徴だと
受け止めています。
区切りを決めて受け入れる。
これが出来るようになったのも
この柔道のおかげです。
学ぶところがちょっと
違うところが面白いですね。
そうきめてから練習に励み、
区の大会で上位に入ることもありました。
近くに講堂学舎という
全国の柔道少年が集まる寄宿舎があり
そこに古賀稔彦さんが一学年上にいました。
試合が一緒になることもありました。
この講堂学舎は
弦巻中学校の学区にありました。
それなので区大会でも
弦巻中学の柔道部は特殊でした。
団体戦の時も5名のところ
3名しか出してこない。
先鋒、次鋒、二人が不戦勝で
後の3人が全勝するという編成が常でした。
寄宿舎で柔道の
英才教育を受けているメンバーです。
試合の時にだいぶ粘ったことがありました。
5人目は絶対勝たないといけない
プレッシャーがあったと思います。
こちらは責任感はなく
試合に出てますからリラックス度が違います。
そして試合場の周りに
坊主頭の寄宿舎生が
ぐるっと取り巻いています。
時間いっぱいまで
粘りそうになったときに
その坊主頭の寄宿舎生から
試合の相手に
「かえったらどうなるかわかってるだろうな」
「なにやってるんだ」という罵声の嵐がありました。
相手の選手が、涙目になっていたのを覚えています。
結局、わたしの中学は僅差で負けますが、
相手にしては一本以外ありえないわけですから
帰ってひどい目に遭わなかったか
今でも思い出すと
心配してしまうことがあります。
また
こんな人たちのやってる世界は
さっさとやめようと
心を固めたのもこの試合の直後でした。
罵声を浴びせ合う集団は私から見れば
クズとしか思えませんでした。
その後、柔道との関わりは
中学のクラブ活動、
高校の授業で終了します。
早く自分の好きなことが
できるようになりたいと思いつつ、
ただ我慢する
奴隷のような感覚で日々を過ごしていました。
それなので
試合に勝っても喜びもなく
「あと何年の我慢」ということを
念じながら練習をしていました。
端から見たら
熱心に打ち込んでいると
見えたかもしれません。
こんなのを親が聞いたら
せっかくさせてあげたのに
親不孝だと嘆くでしょうが、
小学校当時の正直な気持ちを綴ってみました。
貴重な経験をさせてくれたことには
感謝しています。
柔道の名誉のために
付け加えると
やめたかったのは
自分で選んだことではないからです。
柔道が悪いと思っていたわけではありません。
オリンピック加盟国よりも
加盟している国が多いともいわれる
素晴らしいスポーツだと思っています。
自分で決めたことだっら
今でも続けていたかもしれません。
臥薪嘗胆
能「船弁慶」で語られる
会稽山の伝説に触れるたびに
この時期のことを思い出します。
次は「第14章 給食着の紛失」です。
私の味方になってくれたのは新任の若い先生でした。
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