初めての入院

第41章は幸せとは何か、

今ここにいるという自分の存在だけを感じた体験です。

 

2010年の3月28日目黒の喜多能楽堂で

「楊貴妃」の舞台がありました。

 

この前日に師匠から

お弟子さんに渡す手附けを書くように言われ

ほぼ徹夜で仕上げました。

 

 

午前中はそれを届けに行き

稽古をしてから目黒の喜多能楽堂に向かいました。

 

 

舞台につき少し

腹痛がきついように思いましたが、

舞台前の緊張なのか

気のせいなのか判断が

つかないでいました。

 

 

舞台に出る前というのは

何度していても

意識していない

緊張はしているようです。

 

 

何百人の前に出るわけですから

特別意識しなくても気が張るものだと思います。

 

 

舞台に上がり少しして

左手がもの凄く重くなりました。

 

 

小鼓を持っていますから

少し打ってはももの上におろし、

また肩に乗せ打っていました。

そのうちに汗がボタボタと落ち始め

自分でもおかしいと感じました。

 

 

地謡から見ても楽屋の脇からも

様子がおかしいと見えたらしく、

後ろに先輩が来て

舞台から引くように言われました。

 

 

それでも最後までは勤めたいと

思っていましたが

左手もきかなくなってきました。

 

そして曲の区切れ目で切戸口から

誘導されて中にはいりました。

 

 

その日は3曲あり、

私は2曲目でした。

 

 

ちょうど早く来ていた

次の曲の小鼓方が代役をしてくれたと

後から聞きました。ご迷惑をかけました。

 

 

舞台から引かされた後は

しばらくしてまたその舞台に戻るつもりでした。

とはいえ意識も朦朧としてきていました。

 

 

しばらくすると救急車が到着し

ストレッチャーに乗せられ救急車に乗ったのです。

 

 

その救急車の中で

「43歳男性右麻痺脳梗塞の疑いあり」

という声が聞こえてきました。

 

 

その時にはもう舞台も復帰できない、

家族とももう会えないかもしれない、

障害が残って仕事もできなくなって

どうやって生きていくのかと

不安が一気に襲ってきました。

 

 

それがしばらくすると

だんだん薄らいで

暖かい光の中につつまれるような感覚になったのです。

 

 

小学校の時に土手から自転車で降りた時、

交通事故にあった時と同じような

光につつまれる感じです。

 

 

そして今までに感じたことのないような

幸福感に包まれてきました。

 

「もう何もしなくていい 」

 

ただなんとなく暖かさを感じているだけ。

そんな感じになってきたことろまでは記憶しています。

 

 

病院に着いてから

ストレッチャーで運ばれながら私は

ただひたすらに舞台に穴を開けたことを

「申し訳ありません」

と謝っていました。

その後はもう意識がなく

どうなったかは覚えていません。

 

集中治療室

「葬儀屋さん、まだなの」

 

という声で目が覚めました。

そこは集中治療室でした。

 

気がつくまでには少しかかりました。

 

悪い夢を見ているような光景です。

チューブに繋がれた老人が

一番初めに目に入りました。

 

点滴ではない太いチューブに

白い液体がつながっています。

 

ああここで終わるのかと

絶望感が襲ってきました。

 

 

それでも

舞台の人のいるところで

倒れたのは不幸中の幸いです。

 

 

家で寝ているときだったら全く気がつかずに

麻痺したままだったかもしれません。

 

 

集中治療室から一般病棟にうつると

頭の手術をした人や

集中治療室から出てきた人と同室でした。

 

 

回転の速い病室で

毎日人が出て行き人が入ってくる

輪廻の縮図のようなでした。

 

 

人は出会いそして分かれる、

 

昨日いた人が霊安室に行く。

まさに六道の辻に来たような思いになりました。

 

 

入院中は毎日、ノートをつけていました。

幸いなことに後遺症は残らなかったようで

手は動かすことが出来ました。

 

トイレに行けないのがつらかったですね。

しかしこのおかげで

20年の運転生活からやっと

解放されることが出来ました。

 

 

人生の転機は自分で計画しなければ

突然強制終了する予告だと感じました。

 

 

そして日々悔いのないように生きることが

一番の幸福ではないかと思うようになりました。

 

 

一週間の入院で退院した時はフラフラです。

退院の時に家族が迎えに来てくれるかと思いましたが

それは虫のいい話で

妻からは娘のスイミングの

荷物があるので迎えに来るように言われました。

 

 

出産の時も一人で病院に行かせてしまったので

これは仕方ないことです。

 

 

退院した病院から

そのまま娘のプールのお迎えに行きました。

 

 

自分にとっては大きいことだが

自分以外の人にとっては

特別変化のないものだと

痛感した瞬間です。

 

 

それなので入院したことも

大げさに捉えるのをやめられました。

今ここにいるそれだけが生きていると言うことだと感じています。

 

次は「第42章 退院後に待っていたもの」です。

半年で21キロ減るほどの変化がありました。

https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598892301.html

 

 

生まれる前

第01章【誕生前】 選んだ家庭
第02章【 0歳 】 誕生

幼少期

第03章【  2歳  】 トイレに落ちるのをこらえていた
第04章【 4歳 】 幼稚園に送迎なしで通っていた
第05章【 4歳 】 祖母にコップで殴られる
第06章【 4歳 】 祖母に仕返しをする
第07章【 4歳 】 茶化されるのが嫌い
第08章【 4歳 】 ブランコの鉄パイプが顔に刺さる
第09章【 4歳 】 本をひたすら開いていた
第10章【 5歳 】 世田谷線を止める

小学生

第11章【 6歳 】 小学校初登校
第12章【 9歳 】 弟の病気
第13章【 9歳 】 柔道を始める
第14章【 10歳 】 給食着の紛失
第15章【 10歳 】 光に包まれる

中学生

第16章【 13歳 】 父が亡くなる
第17章【 13歳 】 ギターを始める
第18章【 14歳 】  国士舘大学の柔道部にゆく
第19章【 15歳 】 天敵が現れる

高校生

第20章【 15歳 】 サッカー部に入る
第21章【 17歳 】 交通事故
第22章【 18歳 】 柔道大会で優勝する
第23章【 18歳 】 ビンテージギターを手にする
第24章【 18歳 】 テンプル大学とのご縁
第25章【 18歳 】 引っ越し
第26章【 18歳 】 衝撃の初月給

大学

第27章【 18歳 】 テンプル大学「卵」と「バナナ」
第28章【 18歳 】 アメフトを始め防具を譲り受ける
第29章【 19歳 】 失恋劇場は上手ばかりではない
第30章【 19歳 】 座間キャンプで英語が通じない
第31章【 19歳 】 小鼓を初めて見る
第32章【 19歳 】 休学する
第33章【 20歳 】 国立能楽堂に願書提出

国立能楽堂研修生

第34章【 20歳 】 国立能楽堂の試験
第35章【 20歳 】 人生を決めた一冊「行動学入門」
第36章【 21歳 】 国立能楽堂の稽古とアルバイト

内弟子

第37章【 23歳 】 20年の運転が始まる

独立

第38章【 32歳 】 独立記念能
第39章【 41歳 】 演奏家の妻と結婚
第40章【 42歳 】 娘が誕生
第41章【 43歳 】 舞台から集中治療室に運ばれる

退院後

第42章【 43歳 】 退院後に待っていたもの
第43章【 43歳 】 いのちの電話
第44章【 44歳 】 野菜自給生活
第45章【43~47歳】社会勉強勉強でセミナー通い
第46章【 44歳 】 自分を変えなければ何も変わらない
第47章【 47歳 】 重要無形文化財能楽保持者の認定
第48章【 47歳 】 初出版『ビジネス版「風姿花伝」の教え』
第49章【 49歳 】 読書の習慣化
第50章【 50歳 】 神社とお寺に立ち寄る習慣

まとめ

これから