危険とカッコよさ
危険なことに
カッコよさを感じる年頃になりました。
第15章は
命を危険にさらす事と
カッコよさは別物という事を
学んだ体験です。
小学校までの私は
留守番が多く
不満はないものの
野球のような球技は
ほとんど出来ませんでした。
それなので10歳くらいになって
公園で友達と一緒に遊ぶことが
今ひとつ面白くない時がありました。
それでも自転車にのるのは
かなり好きでした。
あるとき友人と自転車で
出かけた時のことでした。
土手は林になっています。
その林をスラロームのように
自転車でおりる遊びをすることに
なったのです。
初めのうちは
慎重にゆっくり降りていました。
この土手が
関東ローム層の赤土むき出しで
よく滑るのです。
何度目かに降りるとき
木に正面衝突思想になりました。
そのときに私は思いきり
ブレーキを握りました。
そのときブチッと
ブレーキワイヤーがきれました。
そのまま落ちると思ったときに
光に包まれるような感覚になり
気がついたら土手の下に
自転車にまたがっていたのです。
このときは、
特殊な能力があるのではないかと
勘違いするほどでした。
この勘違いの元になった
光に包まれるような体験は、
高校1年生で交通事故のとき、
43歳で脳梗塞のときにに
また経験することになります。
その感覚が
なんなのかはわかりませんが、
なにかに守られたことは
事実だと信じています。
危険なことはカッコ悪い
「火事場の馬鹿力」
とか
「石中の火」という言葉があります。
昔から切羽詰まったときには
特別大きな力が出るというたとえ話です。
この
「偶然のようにうまくいったこと」
の悪い点は再現性が
ないところだと思います。
練習して
身につけた技術なら
同じ事を何度でも出来るかもしれない。
この
文字を入力するという作業も
身についているので、
言葉を綴っていくことが出来ます。
もしこれを適当に
パチパチ打ってみて
良い文章が出来たとしても
再現性はありません。
文字くらいなら
試すのにも良いかもしれないが、
再現性のないものに
命の危険をさらすのは
よいチャレンジではないと思っています。
大事なことに命を使う方が
生まれてきた意味がある。
そんなこともあって
命を危険にさらすことと
カッコよさは別の物という事が
はっきりとわかるようになりました。
ブランコから飛んだり、
高いところから飛び降りたり
そんな危険なことは
このときからほぼしなくなりました。
危険なことをして
カッコいいというのは
小学生の時は
ただの自慢話だが、
大人になると
武勇伝を語るような
痛い行為につながってきます。
何れにしても
無駄に命を危険にさらすことは
かっこ悪いことだという認識が出来ました。
挑発されても
やるべき事に集中するという
判断基準もこの時に出来ました。
次は「第16章 父が亡くなる」です。
悲しさとは少し違う感覚が
私の心を占めていました。
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